クリスマスのこと

 日本では幕末から蘭学者によって、オランダ正月という祝宴が開かれたそうですが、そのもとになったのは、キリスト教禁令下でクリスマスを祝うことができない長崎出島のオランダ人たちが、日本の冬至祭に借りて日本人を招いて催した「オランダ冬至」というお祭りだったそうです。それに招かれた日本人の通訳が「オランダ冬至」をまねて「オランダ正月」を催し、江戸から留学していた蘭学者大槻玄沢を招きました。
そして、大槻玄沢が江戸へもどって蘭学者たちによる「オランダ正月」が開かれるようになるのです。

 「この会は常にオランダ正月と唱え、爾後年々冬至より第11日目に賀宴を開き、社友を会すること、磐水没後も元幹(玄沢の長子、文彦の父磐渓の兄)受け継ぎて凡そ50年許永続したりき。漢方医者の冬至に神農祭をなすより、オランダ正月には西洋の医祖と仰ぐヒポクラテスの象を掛けて祭りしなり。」(大槻玄沢盤水の孫の回想)

 だから、オランダ正月はキリスト教のもとでされるのではない「日本のクリスマス」のはじまりでもあるわけです。もちろん、そこに出されたのは、オランダ料理で、お雑煮でもおせちでもありませんでした。
 ロシアに漂流し長年生活してもどってきた大黒屋光太夫は、一度招かれて参加したけれど、二度と参加しなかったそうですが、だから、オランダ正月は西洋料理もどきで、本物ではなかったのだと言う人もいるのですが。

 明治になって日本でもっとも早期にクリスマスを祝ったのは、勝海舟たちのようです。勝は外国人とバーティーでプレゼント交換を行っています。

  1875 明治8年 日本人による最初のクリスマスパーティーが祝われる。
  1875 明治8年 お雇いアメリカ人ホイットニー家と勝海舟らのクリスマ
      スパーティーでプレゼント交換が行われる。

 菅井が覚えているクリスマスのアイテムといえば、ながぐつの中に、お菓子やおもちゃのつまったプレゼントです。あれは小さい頃本当に欲しかった。また、プレゼントは寝ている間にサンタ(もちろん実際は親なんですが)が枕元にそっと置いておくもので、子供はうすうす感じてはいても、それをサンタの贈り物と喜んでいました。いまはそういう習慣はなくなってしまいましたよね。

 1947 昭和22年 「近江物産」による日本独自のクリスマスブーツ型の詰め合わせ菓子が発売される。

 菅井の記憶ではながぐつは不二家のだったような。ケーキというのも、クリスマスぐらいでしか食べませんでしたね。

1910 明治43年不二家」による日本のクリスマス・デコレーションケーキ
    の原型が発売される。

 今の日本独自のクリスマスのように、好きな人とすごすクリスマスという考え方が広まったのは、そんなに古いことではありません。家族型から恋人型へクリスマスが変化したのは、ここ20年くらいのことでした。菅井は、今から30年くらい前に、大滝詠一さんが、ラジオ関東でディスクジョッキーの番組をもっていて、そこで、クリスマスに一人でさびしく過ごしている人にといって、「ブルークリスマス」というアメリカンポップスを流しているのを聞いたのが、初めてでした。

プルー・クリスマスさ
君がいなければ

ブルーな気分さ
君を思って
緑色のツリーに飾られた
赤いデコレーションも
どことなくいつもと違う
君が一緒にいなけれぱ

そしてブルーの雪が
降りだした時
悲しい思い出が
少しずつよみがえる

きっと君は楽しく過ごす
このホワイト・クリスマス
でも僕にとってはブルー
ブルー、ブルー、ブルー・クリスマス

当時は恋人がいなくてさびしいクリスマスを過ごす人の視点のほうが普通だったんです。その後、大滝さんの後輩の山下達郎さんの「クリスマスイブ」という曲が有名になって、クリスマスはどうしても恋人に逢わなくちゃ、となり、「恋人はサンタクロース」なんて歌もありましたが、今では、デートのためにイブは仕事を入れないのが当たり前なまでになっています。
 いささか商業主義の勝った、今のクリスマスのもとには、日本にディズニーランドができたこともあると思います。やはり、20年くらい前です。さかんにきらびやかなイルミネーションのクリスマスイベントをやって、イメージをつくり出しました。家や、街路を電飾でかざるデコレーションなど、そういうものなしには考えられません。
 
 上海にいる友人から、メールでクリスマスカードをもらったので、こんなことをいろいろと考えてしまいました。
 ネットのいくつかのクリスマスについての説明をもとにして書きました。