「リアルを大事に」という時の「リアル」 その2

個人の思いの先にあるリアルという考え方について

ある人が、何がリアルかを考える時に他人のリアルは不可欠か あるいは 個人の思いの先にあるリアルとは、果たして別の人のリアルなのか?


このまえとりあげた煩悩是道場の1.11のエントリーに触発されてもう少し書きます。


 菅井はこのまえ、リアルは人の脳の中にあり、人の数だけリアルがあると書いた。だが、それでは一人よがりになるかもしれない、他人のリアルを知ること、他者とコミュニケートすることが本当のリアルを知るためには不可欠ではないのか。煩悩是道場のエントリーはそういうことを言っているのだと思います。
 そこで、今度はその意見について考えてみました。


 対象によっては必要な場合があるが、本質的には不要である、というのが菅井の意見です。
 対象によるというのは、対象が、他人の考えとか、社会意識ということになれば、不可欠だということです。自分でない人の考えを、その人に確かめないで理解することはムリです。
 しかし、対象が「自分以外の人間の意識」でないのなら、他者の意見を聞く事、他者とのコミュニケートは不可欠条件ではありません。不可欠な条件は、リアルが問題にされているその対象そのものとつながることなのです。
 メクラウオについてリアルを知りたかったら、メクラウオをとってきて観察することです。その生き方を知りたかったら、海にもぐるか、水槽で飼って観察することです。少なくとも、そうした研究報告に触れることです。メクラウオについて、自分以外の人と話し、考えを統一することではないのです。


 宇宙に普通の原子よりもたくさんあるというまったく見えない暗黒物質についてリアルを知りたかったら、強力な観測装置が必要です。暗黒物質の存在が引き起こす、空間の歪曲作用を示す、同じ天体が複数あるように見える現象を望遠鏡で確認するのです。あるいはその研究レポートを読むことです。暗黒物質についての各自のイメージをあれこれ論じ合うことは不可欠ではありません。

 こうしたそのリアルを知りたい対象とつながって、そのリアルをこちらに伝えてくれるものを観察・実験といいます。社会事象まで広げれば、実践ということになります。
 不可欠なのはこの実験、観察なのであって、他者の意見を聞いて統一したりすることではないのです。


 個人のリアルの先にあるものは、たしかにあるのですが、それは他の人とのコミュニケーションとは違います、ということです。

 
 では、他者のリアルとのコミュニケーションは無意味なのでしょうか。
 それには三つのポイントがあると思います。
 まず、先ほどもいいましたが、自分とは異なった他者のリアルがどういうものか、それ自身が知りたい場合は不可欠です。
 また、ある集団が全体としての方針を決定する場合にどの事実認定にもとづいて進むかが関係するならば、どうしても話し合わなければなりません。
 そして、もう一つは、他者の意見は参考意見として聞くことは有用です。でも、他者のリアルはその人の脳の中でその人独自の文脈と言葉遣いをなしていて、私のそれとは違ったりしますから、それをすぐにとりこもうとしたり、反応したりするとどうしてもムリが生じます。ムリにあわせようとしたり、させたりしないことです。ご本人が自分で決めることです。
 そのムリを集団の強力によって強いて、結果生じるおかしなことをおもしろがったりする人々もネットにはたくさんいるんですが、それはサディズムというもので困ったちゃんなのです。