社会主義という亡霊

 社会主義の国家だってまだ存在しているというのに、日本国内では、すでに社会主義が過去のものであり、終わってしまったものだという見解ばかりが蔓延している。
 社会の根幹となる産業にまで、資本主義の恣意的な利益追求を容認しようとするなら、深刻な矛盾にいたらざるを得ない、まだまだいろいろな回避策や、賃労働者階級に対する搾取の強化、困難の転嫁が試みられるだろうが、終わってしまっているのは資本主義の方なのである。
 国営化イコール社会主義というのはまちがってるにしても、社会資本の根幹に対しては、資本のエゴイズムを排除し、全社会的な見地からの計画がなされるのは当然のことである。
 かつて、国鉄を「民営」化、正しくは「私営」化し、本来は国民の資産であるべき国有財産を叩き売って資本家たちのもうけの種にさせたが、最近は国立病院や国立大学も私営化、そして、郵便も私営化しようとしている。
 私的利益追求の恣意にまかせては、機能しない産業分野が国営企業であったとするなら、それを民営化することは実は不可能である。「民営」化、私営化とは、社会に必要なあるセクターを空白にすることでしかない。それ自体が資本家のもうけの機会となるだけで社会を機能不全にする行為なのである。
 実際には簡単に空白にし、機能しなくするわけにはいかないから、さまざまな修正や、国家財政の使用によって、カバーできないまでも、いろいろごまかし策が講じられる。よけい複雑でねじれた状態になり根本改善が困難になっていく。


日本国憲法は第25条に
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
とある。

この「健康で文化的な生活」は、いながらにして利益のはいってくる、ないしは、うまいポジションをとって勝ち組になっている人には保障されても、働けど働けどわが暮らし楽になっていない、働けば働くほど貧乏になっていくワーキングプアや、働くことさえできない人々には保障されていないのだ。
今の自公内閣は、日本国の国是である平和主義を規定した第九条ばかりでなく、この25条についても、それに違反し、正当性のない政府になっている。実際に切り捨てしているばかりでなく、財政難のためやむなくではなく、しなくて当然なのだという憲法に反した論調をあおっている。


 ネットウヨクも尊皇攘夷の単純理論は言えても、日本国憲法をきちんと読む能力がないものだから、弱肉強食の切り捨て原理を唱えて恥じることがない。こういう連中を無法者というのが、正しい言葉の使い方である。法の支配のなんたるかがわかっていないのである。


ベネズエラで、一連の国営化が行われることになった背景には、直接には、国内の情報関連の産業がアメリカ資本の支配化にあることの問題が大きいとしても、社会主義として本来の方向であることは疑いない。
アメリカの社会主義の最近の前進については、今もなお、道義的権威をもっているキューバ社会主義の存在が大きいが、もともと、アメリカ大陸は、フランス革命の直後に共和制をめざす独立革命運動が展開されたところだったという伝統を忘れることはできない。それはアメリカ合衆国のことではない。シモン・ボリバルらが南米全土にわたって展開したスペインからの独立革命運動のことである。ベネズエラはそうして生まれた国である。そして、1917年のロシア革命と並走してメキシコ革命もまた起こっている。
ネットウヨクの苦手な、歴史の知識に照らしてみれば、当たり前のことで、あのアメリカ合衆国のすぐそばでなぜ、というのは当たっていない。アメリカ合州国でさえ、労働運動と、社会主義運動の一時代をもっていたのである。それを鎮圧した今の合州国がいかなる格差社会であるか、そして、残業代も出ない社会であるか、それはご覧の通りである。