司法改革ということ

1月9日

 司法改革といわれているものももともとアメリカの要求によるものだが、その骨子は、アメリカンスタンダードの自由競争経済〔=力の強い企業が好き勝手をする〕を日本に本格導入する、〔規制緩和する〕結果として生じる、様々な諸民に対する権利侵害を、救済するしくみを裁判のみにすることである。権利侵害は、事前にチェック、ないしは、それが起されないようなしくみをつくることこそ正しいのであるが、そうせずに、生じる権利侵害に多少の補償のルートを用意しているから、それでがまんするようにということである。勝ち組になるチャンスだけは負けたものにもまだあるのだから差別社会はそれでいい、という、小泉・安倍政治の精神そのものである。
 弁護士の増加がアメリカの日本に対する要求なのだが、それは、これから権利侵害が増大することを見越してのことであろう。だが、権利侵害にたいして訴訟をするには、弁護士をやとえる金のある者しかできない。弁護ビジネスは増大し、実質、法曹界の民営化私営化となるだろう。イメージかもしれないが、弁護士や裁判官には、今のところ正義の執行者というイメージがある。だが、この司法改革は、それを変えるだろう。公正を実現するものではなく、利害の代弁者としか見られなくなるだろう。優秀な弁護士とは、大企業側について訴訟に勝つノウハウに長けた人間というイメージになるだろう。

 社会のしくみに対する基本デザインの思想がまちがっているのである。ネットウヨクが支持している小泉・安倍が推進してきたこの基本デザインは、一個のカルト思想である。