ネットからー「討論」と「議論」ー

1月6日

 ネットを見ていて、たまたま次のような文章にあたりました。興味深かったです。菅井の考えていることと近いですね。政治的立場のことではありません。

〈討論は(言葉の暴力を駆使して)相手をやっつけるのが目的だから、自分の知ってることを総動員してしゃべる。相手のハナシなんか聞く耳もたないのだし、それを聞くときは揚げ足とりが目的で虎視眈々と聞くだけのこと。このゲームを通じて何かを発見しようという了見は楽天すぎる気がします。

 議論は、話してる内容が良く分からないから話すんですよね。よく分かってるテーマについてなど話す気になりませんから…。ひとつの目的を共有する真摯な集団なら、そこで発見したり目的の輪郭を明確にしたりできますね。合意や伝達にも意義があるけれども、ふつうは「発見」がほしいと思っている。〉

文章の全体からここだけ取り出して申し訳ないですが、この文章を利用して、菅井の見解を書いてみようと思います。

〈討論は、相手の見解がどのようなものであり、どこが自分達とどう違うのかをはっきりさせることが目的だから、自分の知ってることを総動員してしゃべるだけでなく、相手のハナシも聞かなければならない。それを聞くときは相手の見解の一番肝心な欠点や疑問点を提出すべきなので、その目的でよく聞かなければならない。この行為を通じて違いがわかるだけ、となることが多いが、たまに何かを発見することもあります。

 議論は、話してる内容が良く分からないから話すんですよね。よく分かってるテーマについてなど話す気になりませんから…。ひとつの「目的」を共有していなくても、同じ「対象」について考えている真摯な集団なら、そこで発見したり「対象」の輪郭を明確にしたりできますね。伝達にも意義があるけれども、ふつうは「発見」がほしいと思っている。〉

 どこが違うと思いますか。

 前半の書き直しは、相手を説得しようというのが討論で、やりこめようとするのではないと考えるからです。民主主義においては、後者(やりこめ)はけんかの一種で、やってはならないこと、というのが菅井の考えです。初めて会った同士が、相互の考えや生活経験の違いからいさかいにおちいった時、やりこめのようになることはあります。だからといって、それがよいのではない。
 後半の書き直しは、目的を対象と書き直しただけです。ちょっとした違いなのですが、元の文章だと、同じ価値観、目的、たとえば愛国心とかアナーキズムとか、を共有した人間の中でしか、内容を深める議論はできないことになりますが、これは閉鎖的なものの考え方で、事実とも違います。開かれた創造的な話し合いを妨げることになると思います。

 菅井も、ネットにこの種の「討論」という名の暴力ではなく、発見的な議論がもっと多くなることをこの文の作者と同じく、願っています。なんと呼ぶかはどうでもいいんですけど。