lmnopqrstuさんの「正論主義」

 3月17日になって、読売新聞もまた、村上春樹エルサレム賞受賞スピーチ全文(日・英)をのせた。


 lmnopqrstuの日記 村上春樹氏の「正論原理主義」への疑問
と題する文章を読んだ。
 菅井は、この文章は村上春樹いうところの「正論原理主義」の立派な文章だと思う。だれかがつかっているレイヤーという比喩を使わせてもらうなら、「正論」という一レイヤーしかない論旨である。
 lmnopqrstuさんは「原理主義」という部分にずいぶんこだわって、字数もさいているけれど、別に村上春樹氏は「正論主義」といったってよかったんで、「原理主義」なんてどうでもいい。ポイントはあくまで「正論」である。
 lmnopqrstuさんは、そもそも「正論」を主張することがよくないと、村上氏が言っていると思っているのだろうか。それなら、まくしたてる理由もわかる。そうではないのだ。

 村上氏は正論ばかりならば、運動も思想もやせ衰えてしまう、という危険性、事実を指摘しているのだと思います。村上氏の向かう処方箋はーーわれわれの世代(全共闘世代、団塊の世代50歳後半から60代くらい?)の背負わなければならない共同の責任だということです。正論の中にあったある種の理想主義をとりもどさなければならないのだと。

 問題の所在をしることは解決への第一歩ではあっても解決そのものではありません。

 菅井はかつて、正論(善悪の議論)とは別の、「客観的な実在の分析」というレイヤーのあることを知って、まえよりすこしだけ精神的に自由になったことがあります。
 実在の中には、よいも悪いもありません。ただ、必然的な因果のつながりがあるばかりです。資本家は資本家の本性に従って、賃労働者は賃労働者の本性にしたがっているのです。アリはアリの本性にしたがって、自分たちの利益や生き残りによいものを善とし、それをおびやかすものを悪とします。だが、アリを食料とする生き物にとってはそれは逆転します。人類だって同じことです。
 これをはじめて言葉にしたのは、スピノザという一ユダヤ人でした。菅井のそれへの呼び名は「唯物論」です。

 そのレイヤーがあったからといっても、「正論原理主義」が克服されるわけにはいかないことは認めます。だから、これもまた、問題の所在の周辺での物言いということになります。

 菅井はたぶん、《正論とか邪論とかじゃなくてー、ハルキの真意はそこじゃなーいーのー!このわからず屋のこんこんちき!と反論》しようとしたことになるのでしょう。しかも、《村上氏の言葉の「真意」をまず確定してから正邪を論じるのが筋ってもんじゃないでしょうか。》の方はすっかりスルーしてしまっている・・・。
 実は村上春樹の「真意」なんてものにはあまり関心がないからなんでもありますが・・・。