斎藤美奈子はうそつきかでなければなまけものである

斎藤美奈子朝日新聞村上春樹エルサレム賞受賞スピーチについてこう問うた。

《ただ、このスピーチを聞いてふと思ったのは、こういう場合に「自分は壁の側に立つ」と表明する人がいるだろうかということだった。作家はもちろん、政治家だって「卵の側に立つ」というのではないか。》

斎藤美奈子は、うそつきである。でなければなまけものである。「自分は壁の側に立つ」と表明する人はもちろん実在している。それは「貧乏なおばあさんが実在する」のと同様に実在する。そして、そうでないように見せて事実上そう言明している、しっかりと壁の側に立っている人はもっといる。この間の村上スピーチについての日本人のブログの中にもいる。斎藤美奈子が本当に「ふと」そういう疑問を抱いたのだったら、グーグルで「村上春樹 エルサレム賞」と検索して、ひたすら見て見ればよかったのだ。


週刊朝日に全文掲載されて、斎藤美奈子の文章が出て、また、少し広がった感じがする村上スピーチが起こしたうねり。


先日、引用した「坂のある非風景」はジジェクをよく使っているひとなのですね。吉本にも言及しているから、たぶん、精神的には菅井よりちょっと上の世代の人だと思う。全共闘世代?。村上春樹を批判して、高橋和巳をよしとしているところからもそうではと思う。高橋和巳の「非の器」は菅井には特別な文庫本なのです。「坂の上の非風景」ジジェクノート#12で彼は
村上春樹は「生きている卵」の側に立っているが、高橋和巳は「壊れてしまった卵」の立場に立つとして、高橋をとっている。「脆弱な」卵とか、「生きている」卵とかいうのは、読み手が受け取ることで、村上のたとえの正しいところは「卵」をえらんだことだと、菅井は考えているし、彼の「卵」の原型は「ノルウェーの森」の直子、特別な死者だとも感じている。だから、「坂の上の非風景」氏の村上と高橋の対比には疑問を感じる。


「赤の女王とお茶」は、村上春樹が、彼のスピーチによって、自分の文学世界をみごとに守ったと書いていた。それは、確かにそうだと思う。ただ、それは村上の個人的創作世界の内部のことではなく、現実と創作が奇妙につながっている村上ワールドにおいてである。そういう意味ではすでに菅井は村上ワールドに生きている。「赤の女王とお茶」はそうではないのだろう。27日のブログでは、村上の資質をマイルス・デイビスではなく、スタン・ゲッツであると評しているが、菅井は、既に書いたが、「意味がなければスイングはない」の冒頭のシダー・ウォルトン村上春樹の自己イメージなのではないかと感じている。自己理想は必ずしも、正しい自己認識とは限らないが。


斎藤美奈子の文章を全面的に引き取る形で田中康夫が村上受賞批判と文学批判のビデオを自己の政党のホームページで流している。《斎藤自身は、村上の文学自体の批判は回避していたのだが。》
菅井には、田中のここでの主張は、正真正銘の「壁」の側に立った物言いのように感じるのだが、どうだろうか。それとも、菅井がおこちゃまで、大人ではないからにすぎないのだろうか。どこかのブログで誰かが、
「20才より下でおこちゃまでなかったら、それは生きているとはいえない、だが、20才をすぎてなおおこちゃまだったら、それは馬鹿というものである」というようなことを書いていた。