村上春樹はノーベル賞をうけるべきではない、と思った

アラブの文化人が村上春樹エルサレム賞を受けたことを批判する文章を書いているそうだ。

http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20090223_212042.html

《「村上春樹エルサレム賞授賞について」
2009年02月23日付 al-Hayat紙
■ 日本人作家とイスラエルの賞

2009年02月23日付アル・ハヤート紙(イギリス)HP文化面

【アブドゥ・ワージン】

エルサレム作家フェア開会の夜、我々アラブ文化人は、日本の小説家、村上春樹に今年のエルサレム賞を拒否してくれと切に願っていた。ガザでイスラエルによって流された子供たち女性たちの血に敬意を払う意味で、その賞を辞退せよと要請する声は日本にもあり、私達は、彼がそれに耳を傾けてくれると思っていた。アラブ紙の中には、性急に彼の辞退を広めたものもあった。しかしムラカミは、躊躇することなくエルサレムへ赴き、シモン・ペレスの手からその賞を受取った。罪無きパレスチナ人の血が未だ乾かぬその手から。その受賞について彼は、「言われた事とは逆の事をやったのだ」と文学的に描写してみせたが、それだけではないだろう。既にノーベル文学賞候補でもあるその作家は、世界的文学賞への途上にイスラエルが存在する事をよく知っているのだ。言い換えればイスラエルは、シモーヌ・ド・ボーヴォワールミラン・クンデラのような大作家たちが以前に得た、その国際的な賞の一つを与えることにより、有名な日本人作家を釣ることに成功した。

我々アラブの文化人を悲しませるのは、アラブ文化の首都にエルサレムが選ばれたその年に、イスラエルは、そうやってエルサレム賞を利用した。これは、アラブ文化に対するイスラエルの攻撃の最たるものであるばかりか、イスラエルの邪悪な仕打ちの中でも最悪なものである。イスラエルは、この「汚れた」賞を下心をもって適切な時期に与えてみせた。ガザ虐殺の直後である。日本人であれ、世界的文学者を歓待するような文明国がイスラエルなのだと世界に示すことが目的であった。

エルサレムがアラブ文化の首都とされた年にイスラエルは、その名を冠した賞を授与した。一方でパレスチナ国家、あるいは他の様々な関係団体は、イスラエルがガザに対して仕掛けた戦争のため、それを祝う式典を延期した。今年はどうなるのか分からない。「内部」では諍いが過熱し、辞任につぐ辞任。パレスチナ文化人たちの間でも益々亀裂が深まっている。これはイスラエルの望むところだ。このような好機を彼らが見過ごすはずはない。エルサレムにアラブ文化が顕著な姿で現れるのを阻止すべく、彼らは破壊に走っている。

村上春樹イスラエルの賞を無視してくれたらどんなに良かっただろう。この60年代を描く作家はアラブの書店に場を得ている。アラブ人読者も多く、優れた日本人作家の一人としてその名はアラビア語の文芸誌によく登場する。レバノンの出版人で「アラブ文化センター」のハッサン・ヤーギーが、ムラカミ小説4編のアラビア語訳を出したところ好評で、アラブ人読者の間でお気に入りの作家の一人になった。またアラビア語のネットサイトでもその翻訳が行われている。イスラエルではこれ程広まってはいないだろう。ヘブライ語に訳された作品はアラビア語に訳されたものほど多くはない。アラブ圏では本を読む人口全般が減っているとされるが、そのアラビア語の読者と比べても、ヘブライ語の読者はほんの少数である。しかしヘブライ語というのは、ノーベル「クラブ」に入会するための「ビザ」のようなもので、それがあればノーベル賞関係者たちの満足も得られるというものである。

例えば「アラブ連盟」は、何故、世界の大作家たち向けにアラブの名を冠した賞を設立しないのだろうか。そうすれば世界の目が我々に向くかもしれないのに。アラブ文化にグローバルな一側面を与え、現代国際文化シーンの中心に持っていくこともできるのではないか?アラブ連盟は資金不足を言い訳とすべきではない。こぞって賞を設置するであろう数多くのアラブ文化団体と協力し合えばよいのだ。受賞者を讃えるために少しばかり費やしたとしても、それら団体の予算には響かないだろう。ムラカミが得たイスラエルの賞の賞金は1万ドル程度のものだ。

それでも、私達は村上春樹を愛し読み続けるだろう。そうでなかったとしても、私達は彼の犯した過失を許すだろう。実のところ彼自身も、これが過失であると分かっているだろう。明らかな目的があってそれを犯したのだ。アラブ・エルサレム委員会が、この偉大な小説家の目を覚まさせるような賞を授与しないものだろうか。しかし、「アラブ文化の首都エルサレム」を祝えるのはいつになるのだろう。その答えはほとんど見えてこない。

この記事の原文はこちら


(翻訳者:十倉桐子)》
(記事ID:15854)



それについて評したブログも読んだ。

牧村しのぶのブログ「エルサレム賞ノーベル賞
http://blogs.dion.ne.jp/183/archives/8130961.html


《村上さんがエルサレム賞を辞退せず受賞したのは、ノーベル賞への

下心があったからだとアラブのメディアに書かれています

授賞したイスラエル側も利用するつもりだったとされています

http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20090223_212042.html

同じ趣旨の日本語記事も検索するとあります

そう言われる理由は、ノーベル財閥がロスチャイルド家の傘下にあるからです

広瀬隆さんの「赤い楯-ロスチャイルドの秘密」(読みかけです)が詳細です

http://www.oct.zaq.ne.jp/poppo456/in/b_rothschild2.htm

その影響が受賞者の選考にもあると見られています

(略しますが、関連記事はたくさんあります)

ノーベル文学賞は、エジプトのナギーブ・マフフーズも受賞していますが、

イスラム的という批判のあった作家で、原理主義者に首を刺される事件もあり

(後日犯人側が誤りだったと謝罪)、「悪魔の詩」により死刑宣告された

サルマン・ラシュディを擁護する呼びかけをしています

作品を読んでいないので詳しくはわかりませんが、政治的意図が

全くないとは言えません

受賞作家を全部読まないと影響関係は言えず、私はその任には耐えません

私もイスラエルには利用する意図はあったと思いますが、

村上さんについては、そういう人とは思いません

ではノーベル文学賞エルサレム賞の選考に関連性があるのでしょうか?

過去の受賞者を見てみると、重複は3人だけです

バートランドラッセルは先にノーベル賞を受賞しているので

関係ありません

他にはオクタビオ・パスV.S.ナイポールの2人だけです

下にリストを上げますのでご確認下さい

平和賞も見ましたが、かぶっていません

文学賞に限って言えば、強い関連性があるとは思えません

エルサレム賞を取っても、ノーベル賞をもらえない人が多数です

過去23分の3ですが1人はノーベル賞が先なので、22分の2、確立10分の1もありません

これでノーベル賞が約束されたとするのは無理でしょう

川端康成大江健三郎エルサレム賞を取っていませんが

ノーベル文学賞を取っています

エルサレム賞を拒否すればノーベル賞を受賞できない、

というのは、わかりません

ただし、アラブ側からそう見られているということは

重く受け止めます

村上さんのスピーチには相手の懐に入って語りかける力があると思いましたが

アラブ側には失望を招いており、それに応える作品を書いてほしいと思います

ノーベル賞はどうでもいいと思っています》

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村上春樹はアラブの人から
広く深く愛されていると思った。
だが、同時に思った。エルサレム賞が実際にノーベル賞への一ステップであるにせよ、ないにせよ、もしこのまますんなりとノーベル賞をもらうことになれば、村上春樹氏は、ノーベル賞がほしくて、エルサレム賞を受けたということにアラブ世界では受けとめられ、おそらく、村上さんは欲することがどうであれ、卵の側にはたてなくなるだろうと。世界は、次々ステップアップして、ノーベル賞をあがりとする、立身主義を村上さんに観るだろうし、それは卵の側に立つことを困難にするだろう。それはナプルス通信さんの以下を読んで、そう思う。

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http://0000000000.net/p-navi/info/
ホロコーストとともに生きる:ホロコーストサヴァイヴァーの子供の旅路 」

サラ・ロイ

Sara Roy
"Living with the Holocaust: The Journey of a Child of Holocaust Survivors"

数ヶ月前のことです。ホロコーストサヴァイヴァーの子供として、わたくし自身の生の旅路を反芻してみてはどうかと依頼されました。この旅路は今も続いていますし、また、これから先もずっと、わたくしが亡くなるその日まで続いていくことでしょう。ここでそのすべてをお話するなど到底かなわないことですが、イスラエル人とパレスチナ人のあいだの紛争がかくも悲劇的なまでに道徳的奈落に転落しつつあるこのとき、そしてそれにともない、ジュダイズムの核心部分、ユダヤ人であるということの、まさにその核心部分もまた奈落の底へ転落しているのではないかと、少なくともわたくしには見受けられるこのときに、こうしたテーマでお話し申し上げるということは、とりわけ鋭く心に突き刺さるものがあるように感じます。

 ホロコーストという出来事がわたくしの生を規定してまいりました。そうでしかありえなかったのです。ポーランドのナチのゲットーと絶滅収容所で、わたくしの家族や親族も百名以上が亡くなりました――祖父母たち、おばたち、おじたち、いとこたち、そして赤ん坊たちはこの世に生まれ出でる以前に……わたくしが顔も知らないそれらの人々について、幼い頃からずっと、多くのことを聞かされてきました。彼らはポーランドで、シュテートルと呼ばれるユダヤ人共同体で生きていました。

 わたくし自身のこの旅路について自分はいったい何を語りたいのだろうか、そのような思いをめぐらしながら、わたくしはホロコーストというものを自分が最初に意識したときのこと、その最初の出会いについて思い出そうとしました。定かではありませんが、それはたしかナチが父の腕に刻んだ数字の存在に初めて気がついたときだったのではないかと思います。わたくしの父アブラハムは、その抑圧者らにとっては名前もなければ歴史もなく、青インクの数字――わたくしはそれを書き残しはしませんでした――以外にアイデンティティなどありはしませんでした。当時、まだほんの四、五歳だった幼いわたくしは、なぜ腕に数字があるのかと父に訊ねたことを今でも覚えています。以前、腕に描いたら、あとになって洗い落とせないことが分かって、それでずっとこのままにしてるのだと父は答えました。

 父は六人兄弟でした。父の家族でホロコーストを生き延びたのは、父ひとりきりでした。父の家族について、わたくしはほとんど知りません。自分の家族について語ろうとすると、父は取り乱してしまい、どうしても語ることができないためです。父方の祖母についてなら、ほんの少しだけ知っています。わたくしは、この祖母にちなんで名づけられました。でも、父の兄弟や姉妹についてわたくしが知っているのは、彼らの名前ぐらいです。彼らのことを思い出すことで父が苦しむ姿を目にするのは、わたくしにとっても辛いことでした。わたくしはいつしか、家族について聞かせてと父にせがむのをやめてしまいました。

 父の名はホロコースト関係者のあいだではよく知られていました。ポーランドのヘウムノにあった絶滅収容所を生きのびた二人のうちの一人だったからです。ヘウムノでは、三五万人のユダヤ人が殺されました。わたくしの父や母の家族が大半がそこで殺されました。一九四二年一月、ヘウムノに連行された彼らはガス室で殺されたのでした。ヘウムノの絶滅収容所の跡地入り口に掲げられた銘版に父の名が刻まれていると、父のいとこから聞いたことがあります(いつか自分の目でそれを確かめることができたらと思っています)。父はまた、アウシュヴィツとブーヘンヴァルトの強制収容所も生き延びました。一九六一年にエルサレムで行われたアイヒマン裁判に父が証人として召喚されたのは、そのような理由によります。

 母タウベは9人兄弟でした。女の子が七人、男の子が二人です。母の父、ヘルシェルはラビで、またショヘット、つまり祭礼用に家畜を屠る者でもありました。父を知る者はみな、父を愛し尊敬していました。……(中略)……祖母のミリアムは――わたくしは、彼女の名前も受け継いでいます――心根の優しい人でしたが躾には厳しくもありました。夫のヘルシェルが子供に対して声を荒げるなどということが決してできない人であったためです。母はこのような敬虔で愛情豊かな家庭に生まれ育ちました。おばやおじたちも両親を深く愛し、彼らの両親もまた子供たちを深く慈しみました。生活は質素でしたが、≪安息日≫(サバト)になると祖父は必ず、貧しい者や家のない者を自宅に連れ帰り、上座に座らせ、安息日の食事を分かち合ったものでした。

 母の家族で戦争を生き延びたのは、母とその妹のフラニアだけでした。一九三六年にパレスチナへ移住していたショシャナおばさんを除いて、ほかの者は全員、非業の死を遂げました。母とフラニアおばさんは、パバニスとロッズのゲットーで何年か過ごしたのち、アウシュヴィッツ、そしてハルブシュタットの収容所へ移送されました。その間、二人は、戦争が終わるまで、なんとしても離れ離れにならないように努めました。二人が選別の列に並んでいたときのことです。そこには大勢のユダヤ人が並んでいました。彼らの運命はナチの医師ヨーゼフ・メンゲレに握られていました。ひとり彼だけが生きる者と死ぬ者を決定するのです。おばがメンゲレの前に立ちました。メンゲレはおばに右側、つまり労働用の列を示しました。それは束の間の死刑執行延期を意味します。母の番になったとき、メンゲレが示したのは左、死の側でした。ガス室で殺されるということです。でも、母は奇跡的に選別ラインにもう一度もぐりこむと、再度メンゲレの前に立ちました。彼は母を労働の列に加えたのでした。

 サヴァイヴァーの子供であるわたくしの人生とその旅路の決定的瞬間とは、わたくしが誕生する前に起きていたのでした。それは母とおばの決断にかかわっています。賞賛に値するこの二人の女性の決断が、彼女たちの人生を変え、そして、わたくしの人生をも変えることになりました。

 戦争が終結を迎えると、フラニアおばさんは無理からぬことですが必死になって、10年前に移住した姉のいるパレスチナに渡ろうとしました。ユダヤ国家がまさに創設されんとしていた時期でした。フラニアおばさんは、ホロコーストのような出来事が起きたあとでは、ユダヤ人にとって安全な場所は唯一、ユダヤ国家しかないと考えていました。母はその考えに反対でした。そして、決して首を縦に振ろうとはしませんでした。わたくしが生きる上で母がこれまで幾度となく語ってくれたことですが、イスラエルでは暮らさないという母の決断は、戦時中の体験から母が学びとった強い信念に基づいていました。それは、人間が自分と同類の者たちのあいだでしか生きないならば、寛容と共感と正義は決して実践されることもなければ、広がりを見せることもないという信念です。母は言います。「ユダヤ人しかいない世界でユダヤ人として生きることなど、私にはできませんでした。そんなことは不可能でしたし、そもそも望んでもいませんでした。私は、多元的な社会でユダヤ人として生きたかった。ユダヤ人も自分にとって大切だけれども、ほかの人たちも自分にとって大切である、そのような社会で生きたかったのです。」

 フラニアおばさんはイスラエルへ渡り、わたくしの両親はアメリカに来ました。母にとって妹と別れることほどつらいことはありませんでした。でも、そうするしかなかったのです(二人はその後も緊密な関係を続け、アメリカで、あるいはイスラエルで頻繁に会っています)。母の決断、そしてその決断が生まれ出ずるにいたった情況を考えるたびに、わたくしは賛嘆の念を禁じ得ません。

 わたくしは、ジュダイズムというものが宗教ではなく、倫理と文化のシステムとして定義され実践される、そのような家庭で成長しました。神は存在しました。でも、神が中心的存在というわけではありません。わたくしの第一言語はイディッシュで、家族とは今でもこの言葉で話します。喜びと楽観主義に満ちた家庭でしたが、時折、悲しみと喪失感が忍び込むこともありました。イスラエルユダヤ人の祖国という考えは、両親にとってたいへん重要なものでした。結局のところ、わたくしたちの家族の、私たち以外の者たちがみな暮らしている土地なのですから。でも、わたくしの両親がその友人たちの多くと違っていたのは、彼らがイスラエルに対して無批判ではなかったことです。彼らがそうできるかぎりにおいては、ではありましたが。両親にとって、国家に対して従順であること、それはジュダイズムの究極の価値ではありませんでした。ホロコーストを経験したあとではなおさらでした。ジュダイズムはユダヤ人の生に関係性を与えます。国境線に従属せず、それを超越する価値や信念に関係性を与えます。わたくしの母と父にとりジュダイズムとは、証言すること、不正に怒ること、沈黙しないことを意味しました。それは、共感、寛容、救援を意味しました。それは、アミール・アルカレイもが書いているように、過去の記憶が未来の記憶とならないようにするために可能なかぎりの手立てを尽くすことでした。これらがユダヤ人の究極の価値です。わたくしの両親は聖人ではありません。欠点もあれば間違いも犯しました。しかし、彼らは正義と公正さの問題を深く気にかけていました。そして、人々を深く気にかけていました。自分たちと同類の者たちだけでなく、あらゆる人々のことを。

 わたくしにとってホロコーストの教訓とはつねに、特殊な(つまりユダヤ人の)問題であると同時に、普遍的な問題として現れてきました。おそらく、ここでもっとも重要なことは、この二つを決して分けることができないということなのだと思います。この二つを分けることは、いずれの意味をも矮小化することになります。

 人生を振り返って気がつくのは、母と父はその行動や言葉で、わたくしが自ら知識を獲得するのを決して邪魔しようとはしませんでした。その代わりに彼らは、わたくしがつねに、自分の知らないことや理解できないことに直面するように仕向けました。ノウム・チョムスキーが「思考可能な思考のパラメーター」について語っていますが、母と父は絶えずこのパラメーターを、彼らとしてはできうるかぎり遠くへと押しやっていました。それらはわたくしにとって決して十分すぎるほど遠かったわけではありませんが、そうすることで彼らはわたくしに、それらを遠くへやることとその大切さを教えたのでした。

*   *   *

 わたくしがアラブ・イスラエル問題へといたる道筋をたどることになるのは、おそらく避けられないことだったのでしょう。成長する過程でわたくしは幾度もイスラエルを訪れていました。子供の目に、そこは美しくロマンティックで平和な場所のように映りました。十代の頃、わたくしはうまく説明することはできないけれども、そこにはある種の矛盾があるということを感じ始めていました。その矛盾は、イスラエル人の生活において完璧なまでに欠落していると思われるもの、つまりホロコースト以前の東欧のユダヤ人の生活に関する言説、いえ、ホロコーストという出来事それ自体についての言説が欠落していることに集約されます。わたくしはおばに、なぜこうした話題が語られないのか、なぜイスラエル人はイディッシュで話すことを学ぼうとしないのか訊ねたものですが、おばが私に返したのは厳しい沈黙だけでした。

 わたくしにとってつらかったのは、わたくしのイスラエル人の友人たちの多くがホロコーストや、イスラエル国家ができる前のユダヤ人の生活を冒涜することでした。彼らに言わせると、それらの時代のユダヤ人は脆弱で、受身で、劣っており、無価値で、尊敬に値せず、蔑すまれて当然の恥ずべき存在なのでした。「われわれは二度と再び、家畜のように殺されたり、自ら唯々諾々と殺されに行ったりはしない」と彼らはよく言っていました。非業の死を遂げた何百万もの人々や彼らが生きた生を理解する必要などほとんどありはしないかのようでした。ましてや、彼らを称える必要などなおさらありはしませんでした。しかし、同時にホロコーストは、他者に対する防衛として、政治的、軍事的行動を正当化するためのものとして国家によって利用されてもいました。

 わたくしは彼らが言っていることの意味がまったく分かりませんでした。わたくしはおばのことが心配でした。混乱し、深い怒りを覚えました。わたくしがパレスチナ人のことを、そして、彼らとユダヤ人の対立について考え始めるようになったのはその頃のことであったと思います。わたくしたちのかくも多くが自分たち自身を否定し、かくも真実を歪めるのであるとすれば、パレスチナ人に対してもそうでないはずがあるだろうか。ヨーロッパで殺されたユダヤ人とパレスチナ人のあいだには何らかの繋がりがあるのだろうか。自分でもはっきりと分かっていたわけではありませんが、このようにしてわたくしの研究は始まりました。

 その旅路は痛みに満ちたものでしたが、しかし、わたくしの人生のなかでもっとも意義深いものでもありました。母はつねにわたくしの味方でした。いつもわたくしを支えてくれました。時として両義的な思いに葛藤してもいましたが。父は若くして亡くなりました。この問題について父がどのように考えたかは分かりません。でも、わたくしは父がいつも見守ってくれていると感じています。イスラエルにいるわたくしの親族はわたくしがしていることに反対で、その立場を決して変えません。実際のところ、かれこれ十五年というもの、わたくしはもう自分の仕事について彼らには一切、語っていません。

*   *   *

 幼い頃に何度もイスラエルを訪ねていましたが、わたくしが西岸とガザにはじめて足を踏み入れたのは一九八五年の夏でした。それは、パレスチナ人の最初の蜂起が起こる二年半前のことでした。わたくしは、西岸とガザに対するアメリカの経済援助について博士論文を書くため現地調査に訪れました。研究の焦点は、軍事占領という条件下で経済発展を促進することは可能かどうかを究明することにありました。その夏、わたくしの人生が変わりました。占領とは何か、占領とは何を意味するのか、それをわたくし自身が身をもって体験し、理解することになったからです。占領がどのように機能するか、それが経済に、日常生活にいかなる衝撃を与え、人々をいかに押しつぶすのか、わたくしは知りました。人間が自分自身の生を自分でコントロールできないということがいかなることなのか、そして、さらに重要なことは、自分の子供の生に対して親がほとんど無力であることがいかなることなのか、わたくしは知りました。

 ホロコーストと同じように、わたくしがいつ、どのようにして、占領というものと最初に出会ったのか、思い出してみました。占領とわたくしの初期の出会いの一つ、それは、一群のイスラエル兵と、ひとりのパレスチナ人の老人、そしてロバに関する話です。わたくしが幾人かのパレスチナ人の友人たちと通りに立っていると、向こうから年輩のパレスチナ人がロバを引いてやってくるのが見えました。老人の孫なのでしょう、三つか四つくらいの小さな男の子もいっしょでした。傍らに立っていたイスラエル兵たちが老人に歩み寄り、彼の行く手を制しました。兵士のひとりがロバに近づき、その口をこじあけて言いました。「おい、お前。ロバの歯が黄ばんでるぞ。なんで白くないんだ。ちゃんと歯を磨いてやってるのか!?」老人は愚弄され、幼い少年は目に見えてうろたえていました。兵士はもう一度、質問を繰り返しました。今度は大声で老人を怒鳴りつけながら。他の兵士たちはそのようすを面白がって眺めていました。子供は泣き始め、老人はじっと黙ったまま、そこに立ちすくんでいました。辱められながら。同じ場面が何度も繰り返し演じられるうちに、群集が集まり始めました。すると兵士は老人に、ロバの後ろに立つよう命じました。そして、ロバの尻にキスしろと言ったのです。最初、老人は拒みました。けれども、兵士が老人をどやしつけ、孫がヒステリックに泣き叫ぶと、老人は身をかがめ、言われたとおりにしたのでした。兵士たちは大笑いしながら去って行きました。彼らは目的を果たしたのです。老人を辱め、彼の周りにいる者たちを辱めるという目的を。わたくしたちはおし黙り、そこに立ったままでした。恥に打たれ、互いを見合うこともできませんでした。ただ、少年がやみくもにすすりなく声だけが耳に響きました。老人は身動きしませんでした。それは、ずいぶん長い時間であったように思われました。やがて老人は立ち上がりました。貶められ、打ち砕かれて。

 わたくしもまたその場に立ちすくんでいました。信じられない思いにただ茫然として。わたくしがそのときただちに思い出したのは、両親がわたくしに話してくれた逸話の数々です。一九三〇年代、ユダヤ人がまだゲットーや収容所に入れられる前、ナチスによっていかに扱われていたか。歯ブラシで歩道を磨くよう強制されたこと、公衆の面前であごひげを剃り落とされたことなど。あの老人の身に起きたことは、その原理、意図、衝撃において、それらとまったく等しいものでした。人を辱め、その人間性を剥奪すること。このとき、ドイツ兵とイスラエル兵のあいだに選ぶところはありません。一九八五年の夏のあいだずっと、同じような出来事をわたくしは繰り返し目撃しました。パレスチナ人の青年たちがイスラエル兵たちによって無理やり四つん這いにさせられ、犬のように吠えさせられたり、通りで踊らされたりする姿を。

決定的な点において、占領とのわたくしの最初の出会い、それは、ホロコーストとの最初の出会い、あの父の腕に刻まれた数字を目にしたときと同じものでした。それは、同一のメッセージを伝えていました。他者の人間性の否定というメッセージを。ホロコーストと占領ではその量も規模も恐怖も、桁違いに異なるということを認識することは大切です。両者を比較するということに関して注意深くあることも大切です。けれども、両者のあいだに現に存在する相似性を認めることもまた、同じように大切なことです。

 ホロコーストサヴァイヴァーの子供であるわたくしはそれまでずっと、両親が耐え忍んだことの一端でも何とか体験したり感じたりすることはできないものかと――もちろん、そんなことは不可能なのですが――思ってきました。彼らが語って聞かせる物語に耳を澄ましながら、わたくしはいつも、もっと聞きたい、そして両親と涙を分かち合いたいと思っていました。わたくしはよく自分に問いかけました。純粋な恐怖とはいったいどんな感覚なのだろう。どんなふうなものなのだろう。家族の全員を恐ろしいやり方で、それも一瞬にして失ってしまったり、生活のあり方すべてが取り返しのつかない形で消滅してしまうというのは、人間にとって何を意味するのだろうと。わたくしは自分を彼らの立場において想像してみようとしましたが、うまくいきませんでした。それは、わたしに想像できる範囲をはるかに超えた、あまりに測りがたいものでした。

 占領下のパレスチナ人と生活をともにして初めて、わたくしは、これらの問いのいくつかに対する答えの、少なくとも一部を見出しました。いえ、答えの方が無理やりわたくしに襲いかかってきたのです。たとえば、純粋な恐怖というものがいかなるものであるのか、わたくしは一八歳になる友人のラビアから学びました。イスラエル兵がわたくしたちの隠れている部屋の正面扉を壊そうとしたとき、彼女は恐怖に凍りつき、抑えがたく身を震わせながら、難民キャンプでわたくしたちがシェアしていた部屋の真ん中に釘付けになったまま立ちすくんでいました。イスラエル人の兵士たちに向かって一瞬、Vサインをしたという理由で、妊娠中の女性のお腹を彼らが殴っているのをこの目でみたときは、心底から恐怖を覚えました。恐ろしさのあまり身体が麻痺して、わたくしは彼女を助けにいくこともできませんでした。イスラエル当局が許可しなかったため、無許可のまま家を建てたという理由で、イスラエルの軍事用ブルドーザーが家とその中にあるものすべてを破壊したとき、年輩の男性が嗚咽を漏らし、女性が叫び声を上げる姿を目にして、わたくしは喪失と追放がどういうものか、より具体的に理解することができました。

 ユダヤ人とパレスチナ人を繋ぐもっとも深い繋がりと、そしておそらくは、占領というものが意味するもののなかでもっとも痛ましい実例は、家とシェルターという概念のなかに見出すことができるのではないでしょうか。ある家族の家が意図的に破壊される、しかも彼らにはそれを止める術もなく、ただ黙って見ているしかないのを、端で眺めているということがいかにおぞましく、また道徳に反することか、言葉では言い表すことができません。パレスチナ人にとってそうであるようにユダヤ人にとっても、家というものは、頭上の天井をはるかに越えたものを表しています。家とは、生それ自体を表しているのです。パレスチナ人の家屋を破壊することについて、イスラエル歴史学者、メロン・ベンヴェニシティは次のように書いています。
「土地に根ざして生きるという文化がかくも深く伝統に染み込みながら流浪を余儀なくされている個人、その民族的神話が、略奪された祖国の土地から根こそぎにされるという悲劇に根ざしている個人にとって、家というものがもつ象徴的価値はいくら誇張しても誇張しすぎるということはないだろう。そのような個人にとって、長男の誕生と自分の家を建てるという出来事は、時間と物理的空間の連続性を象徴するものであり、人生の中心をなす出来事である。したがって、個人の家を破壊することは、その世界を破壊するに等しいのだ。」

 イスラエルによるパレスチナ人の占領は、両民族のあいだの問題のもっとも肝心な部分であり、その問題点が解決を迎えるまでそうであり続けるでしょう。過去三五年のあいだ占領は、追放と離散を意味してきました。家族の分断。軍の統制によって組織的に否定される人権、市民権、法的、政治的、経済的権利。何千人もの人々に対する拷問。何万エーカーもの土地の収用。七千以上におよぶパレスチナ人の家の破壊。パレスチナ人の土地に不法なイスラエル人の入植地を建設し、過去十年間に入植者の人口が倍増したこと。パレスチナ人の経済をまず切り崩し、そして今は破壊していること。封鎖。外出禁止。地理的な分断。人口的な孤立。集団懲罰。

*   *   *

 パレスチナ人に対するイスラエルの占領は、ナチのユダヤ人≪虐殺≫(ジェノサイド)と道徳的に等価であるわけではありません。でも、等価である必要などないのです。たしかに、これは虐殺ではありません。でも、これは抑圧であり残虐なものです。しかも、それは今や、おぞましくもごく自然なことになってしまいました。占領とはひとつの民族が他の民族によって支配され、剥奪されるということです。彼らの財産が破壊され、彼らの魂が破壊されるということなのです。占領がその核心において目指すのは、パレスチナ人が自分たちの存在を決定する権利、自分自身の家で日常生活を送る権利を否定することで、彼らの人間性をも否定し去ることです。占領とは辱めです。絶望です。そして、ホロコーストと占領が道徳的に等価でもなく対称でもないように、占領者と被占領者もまた、道徳的に等価でもなければ対称でもありません。たとえどんなにわたくしたちユダヤ人が、自分たちのことを犠牲者と見なしたとしても、です。

そして、恐ろしい忌むべき自爆行為が立ち現れ、より罪なき者たちの命を奪っているのは、広く忘れ去られていますが、まさにこの剥奪と窒息状態という情況においてなのです。なぜ、罪のないイスラエル人たちが――そこには、わたくしのおばや彼女の孫たちも含まれます――、占領の代価を支払わなくてはならないのでしょうか。入植地や、破壊された家々や、封鎖用バリケードがもとからそこに存在したわけではないのと同じように、自爆者もまた、最初からそこに存在していたわけではありません。

 ジュダイズムの記憶は――記憶というものすべてがそうであるように――、ダイナミックであり、決して静止したまま変わらないものではありません。そこには多元的な複数の声がはらまれ、一者が覇権を握ることを揺るがします。けれども、ホロコースト以後の世界において、ユダヤ人の記憶はある決定的な点において、その確固たる力がぐらついてしまいました。失われてしまったと言っても過言ではないかもしれません。その決定的な点とは、ユダヤ人の記憶が、パレスチナ人の被る苦難の現実と、それに対してユダヤ人が罪を負っているという現実を排除していることです。一民族としてわたくしたちは、イスラエル国家の創設をパレスチナ人の追放と結びつることができないできました。わたくしたちは、ユダヤ人が自分たちの場を見つけることが、同時にパレスチナ人が自分たちの場を失うことだということを記憶していないどころか、見ようとさえもしてこなかったのです。今日の紛争がかくも凶暴さを帯びる理由の一つはおそらく、パレスチナ人の声を押し潰そうとするわれわれの絶えざるやみくもな努力にもかかわらず、彼らが決してその声をあげるのをやめようとしないことにあるのだと思います。

 ユダヤ人の共同体内部では、イスラエルの行動や政策をナチスのそれと比較するのは、ある種の異端的行為と見なされてきました。たしかに、そうした比較を行うに際しては細心の注意が必要です。けれども、イスラエルの兵士たちが、パレスチナ人の腕に識別番号を描くとき、それはいったい何を意味しているのでしょうか。イスラエルの拡声器が、一定の年齢のパレスチナ人の青年や少年たちに街の広場に集まるよう言うとき、パレスチナ人の子供たちをスポーツとして射撃の的にするのをイスラエル兵たちが公然と認めるとき、パレスチナ人の死者たちが巨大な共同墓地に埋葬されなければならないとき、かたや、軍が正式な埋葬を禁じているために市街の通りやキャンプの路地に遺体が放置されているとき、イスラエル人の将校やユダヤ人知識人が自爆行為に対する報復としてパレスチナ人の村々の破壊を呼びかけたり、あるいはパレスチナ人住民を西岸やガザから追放して別の場所に移送しようと呼びかけるとき、イスラエルの公衆の四六%がこのような移送に賛成し、移送や追放が世間一般の言説の合法的な一部となっているとき、政府高官が「難民キャンプの浄化」について語るとき、イスラエルの指導的知識人が、ベルリンの壁のようなものでイスラエル人とパレスチナ人を分離し、パレスチナ人を密閉状態に押し込もうと呼びかけるとき、壁の向こうでパレスチナ人がその結果、餓死するかもしれないことにはおかまいなしに……こうしたとき、それらは、いったい何を意味しているのでしょうか。

 これらのことを耳にして、わたくしたちはどのように考えたらよいのでしょうか。わたくしの母だったらどう考えるでしょう?

 今日のユダヤ人の存在という文脈において、イスラエル国家のユダヤ的性格を保持するとは何を意味しているのでしょうか。それは、いかなる手段を講じてでもユダヤ人の人口的優位を維持し、パレスチナ人とその土地をユダヤ人が支配することを意味するものなのでしょうか。一つの民族としてわたくしたちは、どのような物語を創り上げていくのでしょうか。どのような声をわたくしたちは求めているのでしょうか。パレスチナ人を貶め、辱めることから、わたくしたちはユダヤ人としていかなる意味を引き出すのでしょうか。わたくしたちの道徳的、倫理的言説の中核にあるものは何なのでしょう。わたくしたちの道徳的、精神的遺産の源にあるものは何なのでしょう。わたくしたちの贖いの源にあるものは何なのでしょう。創造と再建のプロセスはわたくしたちに関してはもう終焉してしまったのでしょうか。

 作家、イレナ・クレプフィツの言葉を引用して、わたくしのこのエッセーを終えたいと思います。彼女はワルシャワ・ゲットーのサヴァイヴァーの子供です。彼女の父親は、彼女とその母親をゲットーからこっそりと逃がすことに成功しました。そして彼自身はゲットー蜂起で亡くなりました。
「……私がたどり着いた答え、それは、闘い、抵抗し、そして亡くなった、私たちの愛するこれらの者たちに愛情を捧げる一つのやり方とは、彼らの同胞の日常生活が破壊されたときに、それを眼前にした彼らの見方や彼らの怒りを私たちが決して手放さないということだった。私たちが日常生活のなかでつつがなく生き続けることを可能にするために必要なのは、この怒りなのだ。その怒りを、ユダヤ人の情況であれユダヤ人以外の者たちの情況であれ当てはめることなのだ。公共生活が崩壊する、そのどんな兆しでも目にしたならば、私たちの行動と洞察を活性化するために私たち呼びおこすべきは、この怒りなのだ。射殺された十代の若者の死を嘆く母親の狂乱。滅茶苦茶にされた家、あるいは破壊された家の前で茫然と立ちすくむ家族。分断され追放された家族の姿。恣意的で不当な法律が商店の開閉時刻や学校の始業終業時刻を命じること。文化が自分たちとは異質であることを劣等性の証拠とみなしてその人々を辱めること。市民権もなく、路上に放り出された人々。軍の統制下で生きる人々。これらの悪が平和の障碍であることを私たちは身をもって知っている。こうした情況をみとめたならば、そのときこそ私たちは過去を想起し、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちを鼓舞したあの怒りと同じものを抱き、その怒りが現在の闘いへと私たちを導くようにするのだ。」

 わたくしにとってはこれらの言葉こそがジュダイズムの真の意味を定義するものであり、わたくしの両親が娘に分け与えようとしていた教訓にほかなりません。




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サラ・ロイ Sara Roy 著書に『ガザ回廊 脱‐開発のポリティカル・エコノミー』など。ハーヴァード大学中東研究センター上級研究員。本稿は、二〇〇二年四月八日、ベイラー大学のアメリカン&ジューウィッシュ研究センターおよびジョージ・W・トルーエット・セミナリーで開かれたホロコースト記念第2回年次講義で発表された。

Sara Roy,
"Living with the Holocaust: The Journey of a Child of Holocaust Survivors"
(Journal of Palestine Studies, Vol.32, No.1)

原文: http://www.zmag.org/znet/viewArticle/11400

翻訳:岡真理

改訂版全文は『みすず』no.525、2005年3月号(みすず書房)に掲載。

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父がナチスから迫害された、ユダヤ人のサラはナチスの所業と、いまイスラエル国家のしていることは同じと批判する人で今回来日するのだそうだ。

わたしは村上春樹エルサレム賞を受けるという判断を支持した。その上で、村上春樹ノーベル賞をうけるべきではない、と思う。受けるなという運動をしようとは思わない。不買運動をしようともまだ思ってはいない。が、そう思う。(ノーベル賞は推薦するものがいないと受けられない賞なので、どこかで村上春樹ノーベル賞を、という運動は、多分確実に存在する)
あるいは、受けて其の上でさらにノーベル賞をつくりなしているしくみ(壁)を批判するというより困難な選択もあるかもしれない。だが、そのために作家としての村上春樹はまだどんな仕事をしなければならないだろうか。