唯物論について 三題

1月20日

唯物論という名称を使うかどうかは別として、自覚的な無神論者はだいたい左翼である。その反対に左翼なら、無神論ということは言えない。自然(諸事物)の連鎖、つながりこそすべてと見る人には、神様や超越はいらないのである。人も人々もちろん諸事物である。

エンゲルスの定式やレーニンの定式に依拠するならば、意識は、今思考している私の意識を含め、全て、物質界の展開の一部分にすぎない。私の考えも、今、ココでの現実と結びつき、反映、機能しているのであり、永遠の真理などというものではない。絶対真理それ自身でもなく、たかだか一個の相対真理である。唯物論をとらない人は、この一点を認めることができない。せいぜいよくて、言葉の上で認めるのみであり、実践としては、自己または、参照すべき教典、人物の「言葉」の絶対化、ひとり歩きを防ぐことはできない。

    ♦♦♦

菅井にとっては、風呂に入るという実践は、自分の土台を構成する実践の出発であったが、それだけではすまなくなった。いくつかの生活上の変更が必要なことも感じられてきた。第1に住む場所であり、第2に今の日記という意識実践の問題点であり、システムとしては時間使用の配分のしかたである。