「貧乏人の文化」・序説

「貧乏人の文化」というものがあり得るのではないかと思う。
ちょうど、流暢で過剰な言葉の反対側に、「奴隷の言葉」というのが存在していて、
それが新しい社会のコミュニケーションのひな形になりうるように。

 ひとつは99ショップのように、100円ショップで総菜、食料を売るお店があらわれたこと。

 80年代、僕らは食の安全性と自然について考えていた。少し高くとも、たくさん食べられなくともいいから、国産で、作り方も自然で消費者にすけて見えるものを食べよう。そうすれば、そういう作り方をする農業を大事にする農民はもっと増えて行くと。
 だが、その後、バブルの崩壊、貯金はあっというまになくなり、いつのまにか、安全より安さを選ぶようになってしまった。コンビニと100円ショップで用をすますことが増えた。中国や韓国、タイなどでつくられるものを使うケースが多くなった。物にもよるが、ある種の国産品や自然食品は贅沢品となった。
 そして、99ショップでの食材中心の安売りショップ。品揃えは独特の傾向をもつ。肉はすくなく、乾物が多い。
これは、ヨーロッパやエスニックの料理店がまし、そういう味で育った人々の舌からははずれるような食材である。既製品中心の品揃えだったら、ただ買って食べるだけだ。だが、食材となると、料理ということがどうしても必要で、そこに独自の食文化がつくり出される可能性だってある。たとえば、「きっこのブログ」のきっこさんは、時々そうした料理を紹介してくれている。
 日本の文化は、外国起源のセレブの文化と、貧乏人の文化とにひきさかれつつある、という気がしてならない。東京の町は、老朽化した建物が高層のマンションに建て替えられるそのたびに、この根無し草のセレブ文化におおわれていっている。それに対して、諸民に根ざした貧乏人の文化はまだ、顕在化していないが、うごめいている。