社会主義の真理

 ぼくらの子供の頃は、社会があって、それに有用な仕事というのがあって、それを選んでめざすのだという意識が強かった。女性は、結婚したら家庭を守るというのがまだまだ強かったが、女性の職場進出もしだいに進み、やがて女性もさまざまな社会的に有用な職業につくようになるという希望もあった。日本を愛するというが、それは、各人が就く有用な仕事の総体を通じて達成されるはずであり、自明のことだった。そのような中になんとか入って行けるか、不安がなかったわけではないが、そうした未来に信頼はあった。職業はモラルを持っており、金儲けの道具ではなく、適正な収入が当然あるべきものと想定されていた。
 民主主義と平和の主張も基本的には、この展望と結びついていた。

 今はそれは変わってしまっている。職業は私事であり、収入を得ることが目的であって、社会を支える社会的活動とは見られていない。生きるためには金が必要であり、それには賃金労働をするしかない、職種は言っていられない。資本家も、資産価値を最大化することが目的であり、社会的責任などとはいわない。だいたい、今日本でやられている仕事のどのくらいが社会的に有用なのか、わからない。まちがいなく有用な、ものづくりのかなりの部分は外国に流出して、国内にはなくなってしまっている。食料を半分以上も自国でまかなえないのだから、農業も失われている。はやりの株式取得による会社ののっとり合併は、いかなる社会的な目的をもつものでもない。資本は資本を拡大することが自己目的なのであり、あえていえば、弱肉強食、強いものが好き勝手をして何が悪い、である。

 小泉、安倍の改革とはそのような社会をつくることである。賃労働者たちは、社会を支えるために日々働いている有為な存在などではなく、能力のないものはいらない、仕事がほしかったら、一生懸命自己責任で努力せよ、なのである。賃労働者など、外国からいくらでも来るのであり、当面は若者を酷使すればまだしばらくは持つ。うるさく、権利など言わないやつがいい。そして、ぼろぼろになって年よりとなったら、切り捨てなのである。すでに進行している、さまざまな社会保障の、国家財政の赤字を口実にしての削減は、オマエたちはいらないからもう死ね、ということなのである。急にやると、文句もでて反乱をおこされてはまずいから、文句も言えないように、じょじょに、ばらばらに、知られないようにやっているだけである。
 今、年寄りが、孤立して一人で死んでいる。子供たちも孤立して一人で自殺している、自殺サイトで知り合った人どうしでの自殺が例外として存在するが。閉じ込められたアパートで何日も発見されないのがありふれたことになっている。諸民が孤立した個人にさせられたのは、資本がそうしたのである。資本主義は孤立した個人を大量に生み出すのであり、それ以前にあった自然な共同体を解体する。家族も解体された。結婚したい女性はあいかわらず多いが、一生幸せな結婚生活が続くものとは期待できなくなっている。賃労働者は自覚的に連帯し、孤立した個人をやめなければならない。が、何十年にもわたって賃労働者の連帯をつぶされてきたことのマイナスは容易にとりもどすことができる程度ではないのだ。

日本を愛することはかつては当たり前であり、それは日常の活動の延長上にあった。だが、今は、日常は、ひたすら、自分の生き残りのために戦う日々であり、エゴイズムであり、孤立した個人であり、社会の共同性は存在していない。帰宅後の余暇時間を使って、天皇陛下嫌韓中、靖国神社東京裁判無効と叫ぶ「愛国」のネットウヨクがいるばかりである。すっかり非日常的なものなのである。

 彼らから見ると、きっと、過去の日本は、彼らのきらいなアカ・「社会主義」に見えるのだろう。だが、そうではないのだ。国を愛する、共同性を愛するという当たり前のことがまだ尊重されていたということなのだ。そして、社会主義共産主義という言葉の前提にあるものも、この潜在する共同性を大切に発展させていくということ以外にはないので、そのためには弱肉強食の資本主義の方こそが制限されねばならないということなのである