学校で国旗と国歌を強制し、従わないと処分すること

 国旗に礼をし国歌を斉唱することを小中高等学校で強制する、従わない教師を処分することが進行中である。大学で同様なことが行われているとは聞いていないが、そのうちそうなるかもしれない。教師のあとには生徒の処分も待っているだろう。
 国旗といっても日の丸であり、国歌といっても君が代だから、過去の軍国主義全体主義の記憶と分離できないからいけないという主張もあり、強行的な決定プロセスが問題だということも言われるが、ここでは一応それを捨象して、申し分なくすばらしい国旗と国歌であったとしてみよう。決め方も十分な議論の時間をとって民主的なブロセスで決められたものだったとしてみよう。
 それでも、このような強制と処分には疑問があるのである。
 2つのことを考えてみたい。一つは、国旗や国歌はもちろん、国の象徴なのであるが、同様に今の日本には、国人ともいうべき天皇という象徴があり、それだけでなく、国鳥、国蝶、国花、国山などという象徴があるからである。日の丸が国旗であることや君が代が国歌であることを知らない人がいるように、知らない人がいるだろうから、念のためにいッておく。国鳥はキジ(桃太郎の家来できびだんごをもらって鬼退治に参加、今もたくさんいてハンターの狩猟の餌食になるキジだが、国鳥と思われている、かつては日本の田んぼによくみかけた鳥で、佐渡で愛情をこめて保護されながら、ついには絶滅してしまい、今、中国からもらいうけて復活しつつあるトキの方がふさわしい気もする〉である。国蝶はオオムラサキ、国花はサクラ、国山はいわずと知れた日本一の富士の山である。これらは立法化されているわけではないが国旗、国歌だってちょっと前までは同じである。もし、国旗と国歌を強制するのなら、キジの写真をかざってキジ祭りを強制したり、オオムラサキを飼育して愛国の情を育てることを義務化したり、お花見に参加しない人を処分したりすることをどうしてしないのだろうか。富士の山に一生に一度登ることは強制されないのだろうか。考えてみればわかるように、そんなことはおかしなことである。国なんとかというのは、すべて国民に広く愛される何者かであり、強制などということにはなじまない。敗戦以後、日本国の象徴となり、絶対君主や神であることをやめた天皇陛下だって、国民に敬愛されているので、学校でその写真を掲げて皆で礼拝を強制しようなどと誰も言わないではないか。
  国旗、国歌を学校で歌うところがあってもよく話し合ってそういうことになったのならかまわないとは思う。だが、強制や処分というのは変である。
 また、もう一つ。国に国歌や国旗があるように、県や市町村にも県の旗、歌、花、鳥がある。それは、県や市や区やの象徴である。国立の学校ならともかく、大半の国旗や国歌の学校での強制にあたっているのは、教育委員会のようだが、公立の学校に金を出しているのは、町や区などの地方自治体であり、国ではない。教育委員会地方自治体の機関ではないか。だとすれば、国旗や国歌をうんぬんする前に、市の旗や市の歌をまず強制するべきなのではないのか。都立高校ならまず、「あさみどり すみたるそらに とぶはとの  しろきつばさも おのづから  平和のしるし 」と東京都歌を歌わせ強制すべきではないのか。だが、石原知事にはそういう動きはない。
 なぜ国旗と国歌でなければならないか、他であってはならないのか、それはどこでも説明されたことはない。
 どうやら愛国心とか国旗とか国歌ということが本質ではないのである。処分して、上の言う事を聞かせる、強制、ということにこの動きの本質があるように思う。それは会社の社長が社歌を歌うことを社員に強制し、歌わないと、処分するというのと同じように見える。それは仕事そのものとは何の関係もない。むしろ、自由の侵害に限りなく近い。