集団的自衛権なるもの

集団的自衛権日本国憲法のどこにも書いてないから、日本にもあるのだとの主張があるが、前文の平和主義はそれを否定している。

《日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。》

集団的自衛権とは、NATOとか、ワルシャワ条約機構とかだが、日英同盟だって、日独伊三国防共協定だって、集団的自衛権だ。これらは普通、軍事同盟と呼ばれている。実際、戦争に使われたのは、集団的自衛権の軍事同盟である。いずれも武力の威嚇によって自分達の安全と生存を保持しようとするものである。

要するに、集団的自衛権を認めるなら、軍事同盟も認めるということになる。この二つは区別をつけることはできない。それによって生じる戦争も拒めないということである。これでは、憲法の平和主義はただのお題目である。平和主義を言っている日本国憲法でも、言わないでいる他国の憲法でもすることは同じになってしまうからである。
要するに、日本は戦争にかかわって、なんら特別な努力をせず自ら手を縛らないことになるのだが、それで平和主義という文字が文面にあるからといって、どうして平和主義国と言えようか。ごまかし、欺瞞である。

 このように、憲法の平和主義と集団的自衛権の行使なるものは水と油である。
歴代の政府が集団的自衛権を否定していたのは、国際秩序をヤクザのケンカと同じで、各国の軍隊の戦争によっておさめようとするのはまちがいだという立場だからだ。公的な武力である国連軍のようなものだけは集団的自衛権のうちに入れなかったのは、日本が参加するかしないかとは別に、それは公的なもので、私的な集団的自衛権=軍事同盟とは違うものだからである。
 集団的自衛権とは、どこまでも私的なものである。アメリカがこの指とまれといって集めたら、アメリカ一家なのである。仲間は守るのである。どっちが正しいか、どっちが侵略したかなどはどうでもいいのである。どの国も戦争始める時に大義を主張するけれども、みちづれになるのは、その戦争が正しいからではなくて、同盟を結んでいるからである。

集団的自衛権をすでにイラクで行使し、それを合憲と主張し、改憲まで目指している国家公務員安倍らは、次の憲法前文冒頭に照らしてみれば、まちがいなく犯罪人である。

《日本国民は、・・・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。》

ちゃんと読んでもらいたい。

日本国民は政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、この憲法を確定する 。われらは、これに反する一切の憲法を排除する。