度外視すれば(ノート)

ノート 思いついたことをメモ的に羅列しておく。といっても、本気である。


 ひきこもり・不登校は、東京シューレなどの場や、だめ連などの場の存在と、ネットにようやく蓄積されはじめた彼らの存在を支援する言葉の結果、閉じこもり、社会の目に触れないのではなく、自発的に動きだし、見えるようになる段階に達したように思う。
 しかし、社会とか文化の状況は、彼らがあたかも存在しないかのように動いている。
 ジェントリフィケーションとでも言うべき、きれいで、清潔で、モダンですこししゃれていて、お金もそれなりにかかる、という店や街に変わりつつあるのである。そこは、一定の社会的スキルをもち、個人として動ける人間を前提としている。ひきこもり、不登校といった人々には、新しく作られている空間は実は、いづらい、はいれない。もちろん、費用の問題もある。
 彼らに可能な交流の場所が必要なのである。すでにそうした試みはあるが、突出したものだけの閉鎖的なたまり場を超える必要があるのである。点ではなく、線やネットでなければならない。彼らの交流形態にあった町がどうしても要る。
そういう点で、だめ連がやってきたことは先駆的だったし、きわめて重要だったのだな、と今改めて思う。

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 実現可能性を度外視してどうあるべきか、どうだったらいいか、どうあってほしいか考えることはきわめて大事だ。むしろ、その方がいい考えが浮かぶ。長い不毛な議論の末、結局現状が一番という答えや、方向で話が終るのはもったいない。根本的な問題については、実現可能性は度外視して、考えてみるべきである。


 日本国憲法生存権条項を入れさせたのは、アメリカではなく、日本側の審議の中で森戸辰男が主張して入った。そして、その意義は、格差社会でおちこぼれた弱者に生活保護を与えることにあるのではなく、格差社会を是正し、全ての人間が健康で文化的な生活を営むことができるような社会に改革する責務を日本政府に課すという点にあった。日本国憲法は、自らの国家を変革すべきことを内容としているのである。軍備と交戦権の放棄といい、このように体制の変革をビルトインしていることといい、確かに日本国憲法は近代国家の常識からすると、特殊な憲法であるといえるし、日本国は近代国家を超える国家だということが言える。それは誇るべきことではないか。



 全ての人間は健康で文化的な最低限度の生活を保証されるような社会とはどのような社会であろうか。食料、住居、衣類、通信(手紙や電話)、交通(電車代)、情報(本、インターネット)、教育のある程度までのベイシックな部分は無料ということでなければならないのではないか。

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 基本的人権も民主主義も友愛も、普遍人類的なものである。日本的な人権とか、日本流の民主主義などというものは、あり得ない。そうであるからこそ、アメリカがイラクへの侵略を民主主義のためといいつくろうことができたのだ。世界中、どこでも民主主義の成長があるのであり、日本にももちろんあった。それに依拠することと、特殊日本的な権利観を主張することとはまったく別である。憲法においてももちろんである。

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 日本の格差を考える時、A層、B層、C層の三つに分けることはまちがってはいない。AとBCとの間の画線は、支配階級であるか、非支配階級であるかであり、ABとCとの間にある画線は、教育を受けている、資格をとっていて、ゆとりのある生活をしているか、そういう文化資本から排除されていて、ゆとりのない生活をおくっているかである。Cの底辺にはワーキングプアーとか失業者がいる。
 AとBの違いは、どちらも教育や文化をCに対して独占しているのだが、Aが支配階級としての人間つながりがあるから、支配階級にとどまれるのであって、高学歴などはその現れにすぎない(学歴などは留学などでいくらでも手に入れられる)のに対して、Bの立場は実質的に彼らの教育や資格・能力に依存しているということだ。もちろん、B層の多くが父親がある程度高給の会社員であるとかいうことはあるだろう。だが、そうであっても、実際に学歴を獲得でき、資格をとれたから、能力があるからゆとりがあるのである。この層はそれに失敗すると実質C層に転落する。
 C層は、家庭の経済的条件などから、実質的に高学歴や資格の獲得から排除されている層である。Cの主たる敵意はB層に向かっていて、Aに向かっていない。

 C層は、自由につかえる時間が少なく、ネットで簡単に入手できる情報以上にはいきにくい。丁寧な現実の分析考察は時間的経済的ゆとりのあるB層の手によるしかないのだが、B層とC層には、見方、生活感覚の上で断絶があり、C層のための分析が生じにくいし、届きにくい。
 レーニンが革命理論は、インテリにより、労働者階級の外で作られ、外部から注入(啓蒙、教育)されるという事実認識(外部注入論といわれてきた)を提出していたが、基本的にはそれと同じ事態が日本の今にもある。

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 ジュネーブ条約によれば、軍備をもたない国に対して、攻撃をしてはならないことになっている。そのことと、国連憲章とをつなげれば、日本が軍備をもたず、平和を維持するしくみは可能ではないか。

 最初の安保条約の秘密交渉の過程で、吉田総理の指示のもと、米軍を国連の平和維持(日本の防衛)の一環を荷なうという資格で(国連軍として)、日本に駐留させるという案が検討されていたことがある。吉田は実際にはその案を交渉の場に出さなかったようだし、当時の状況も関係していたが。