殺されないために殺すために

追いつめられると自殺したくなるものだ。そういう限界状況の人は日本にもたくさんいると思う。
なんとか、引き延ばしたり、ごまかしたりしながらやっている。だが、それが利かなくなる段階になったらどうするか。
その場合、自分を殺すことをやめて、他人を殺すと楽になる。もう死にたいと思わなくてすむようになる。自己の実現といってもよい。
誰を殺すかといえば、自分を追いつめ、死にたくさせている環境(敵)を、である。その代わりになるなら誰でもよい。戦争でだってかまわない。
つまりその殺人の本当の意味は象徴的な人殺しなのである。自分は決して殺さない、敵をこそ殺す、ということである。
象徴的な殺人だから、ただ一度やらかせば充分だということだ。それに対して根っからの殺人欲望者ならくり返さずにはいられない。


現実に殺すのでなく、何らかの方法で文字通り象徴的な殺人ができればよいのに、ということは言える。
はたから見れば、あとからいえばそういうことは言える。


だが、何が象徴的殺人の物質的実践であるかなんて誰にわかるだろう。
どうしたら、象徴的な他者殺しを現実の他人殺しの実践から分離することができるというのだろうか。


そうこうしている間にも、自分抹殺と他者抹殺にゆれながら、臨界点に向けて追いつめられている。


それを見いだす、ないしはつくりだすべきなのだ。
殺されてしまわないために。