システムがつくる味と人がつくる味

 店の味には、システムのつくる味と人のつくる味の二種類があるように思われてならない。


 マクドナルドをはじめとする多数のチェーン店を有する店はどこへいっても基本的に同じ味。店の従業員が全とっかえされても、少しも味は変わらない。
 ところが、同じチェーン店でも昔からのときわ食堂(東京にはある程度ある)のようなところは、出し物も少しずつ違うし、味もその店特有である。東京は神保町界隈にはいもやという天丼、てんぷら定食、トンカツ定食などのマイナーチェーン店があるが、これらも店によって味は微妙に違う。そして、つくっている人の味のように思う。実は、いもやで一番おいしい天ぷら定食を出していた店は、飯田橋の近くにあったのだが、それは格別だった。今はない。
 こういうことは、ココイチカレーとか、同じ天ぷらでもてんやとか、トンカツでもかつやとかにはない。これらは、人が変わっても同じ味の、システムがつくる味なのだ。まずいとはいわないが、どこか既製品の感じが菅井にはする。
 システムがつくる味は全国チェーンなど、大量の店をもつところが多い。それに対して、個人店やチェーン店でも昔からあったり、数が少ないところは、人のつくる味の店がある。たぶん、作り方や料理のしかたの教育法にちがいがあるのだと思う。(昔からあっても、給食の味などはシステムのつくる味だと思った)
 システムのつくる味は、マニュアルとか、決まった調理器具が味を決めているのに対して、人のつくる味は、味を感じる調理人の舌を教育することがポイントかもしれない。とにかく、両者には絶対的な違いがあるような気がする。
 人のつくる味は、その調理人一代のものである。個人の食堂など、つぶれたり、その人が死んだり、病気でつづけられなかったら亡くなってしまうものだ。
 ずいぶん知っていた店がなくなった。
 多少知られていた店なら、神保町の羅生門という豚カツ屋。あのあっさりしたさくさくした豚カツは絶妙だった。決して胃もたれがしなかった。ある日、行ったらやめていてショックだった。
 菅井にとっては、たとえばいもやとてんやの違いは絶対であり、いもやの方がばらつきはあってもおいしいと思うのだが、若い人にてんやは評判がいい。
 ココイチのカレーも若い人には評判がいい。そういう店は総じて、きれいである。ある程度店員の対応のマニュアルもきちっとしている。
 人のつくる味と菅井が思う店はそれほど、内装に気がつかわれていたりしない。そこそこである。そして、店員さんもいろいろであるし、マニュアル的でないところが多いと思う。
 

 世代の差とも思う。舌も時代とともに変わる。だが、若い人は人のつくる味を知らないのではないかとも思うのだ。人のつくる味だから、舌のだめな店はとことんまずい。でも、すごくうまいというわけではなくても、いい味を出してくれるところもある。もちろん、絶妙にうまい店もある。昔だって給食や大学の学食なんかはシステムの味だったのだし、両方あったのだ。


 なぜこんなことを書いたか、わからない。だが、ここまできて、政治家にもシステムによってつくられている政治家と、この人でなければ代わりはないという個性のある政治家があるかもしれない、と思った。
 だが、三島由紀夫はともかく、菅井には、石原慎太郎も小泉も安倍も祖父の岸も、なぜかこの人でなければ代わりはない、という個性のある政治家に思えないのだ。三木武夫安倍晋三のもう一人の祖父の安倍議員なんかの方が「人のつくる味」の側のように見える。