戦争と、人権・自由とは、相容れない

 天木直人さんの21日のブログに書かれたこんな文章が眼に留まった。

  《民主主義国家のチャンピオンである米国がこれである。なぜ米国はこんな国になってしまったのか。それは米国が終わりのいないテロとの戦いを開始し、継続している国であるからである。戦争をしている国は当然のことながら戦争に勝つことがすべてに優先される。真っ先に犠牲になるのは真実である。個人の人権、自由である。》

 これであるとは、今アメリカでは、国民のために内部告発をすることを犯罪とするようになり、国家の資料の機密扱いはこの十年で四倍にもなり、公開どころか、機密国家になりつつあることである。国民のために内部告発したものがひどい目にあう。
 日本国家もそのマネをしようとしている。九条改憲はその象徴である。


 何故、目にとまったのかというと、
戦争をしている国は当然のことながら、個人の人権、自由が犠牲にする、という当たり前の関係を菅井がはっきりと言葉にして考えたことがなかったからである。でも、その通りである。革命政権であってさえ、内乱という戦争を勝利するためには、人権の制限、場合によっては恐怖政治さえせざるを得なかった。戦争や、戦時下体制のもとでは、基本的人権はいつも制限、どころか、否定されてきた。それが歴史的事実である。今アメリカで進行していることもその一つでしかない。
 戦争と基本的人権の尊重は相容れない。戦争を容認する者は必ず、人権を否定する。日本を戦争のできる「普通の国」(正しくは「時代遅れの国」)にしたいとし、改憲を呼ばわるネットウヨク氏たち、それは新風のような、安倍政権批判の姿勢をみせる、だからネットウヨクとは呼べないような人々も含まれるが、は人権の擁護を戦時、国体の名のもとで制限することを認める人々である。
 九条すなわち、戦争の放棄、国権の発動としての戦争の禁止は、基本的人権の擁護、国民主権の要である。戦争は国家主権、人権制限、民主主義否定の別名である。それは自衛戦争という名目の戦争であっても何の違いもないのである。