「自衛権は自然権ではない」〜酔流亭日乗さんの憲法論争への提起〜

 「酔流亭日乗」さんは、みるからにおいしそうなお酒のとっくりとおちょこの写真ののっているホームページです。旅や食べ物の写真と話がたくさんのっています。それは、菅井のような食生活の貧しい人間にとっては異世界のようなのですが、あこがれの対象でもあります。菅井がこのページを見るようになったのは、歴史学者色川大吉さんのことが時々のっているからでした。けっして、今はやりの政治ブログや社会派ブログではありません。その種の話題はむしろ少ないです。でも、休みになると食べ物を求めて旅をする酔流亭日乗さんは、賃労働者です。長年にわたる労働処分撤回の裁判にもたずさわってきて、最近ようやく勝利を祝ったそうです。若い人や、実情を知らない人は、労働組合というと、日常から離れた異常なものを考えてしまうのでしょうが、労働運動や労働組合というものは、こつこつと積み重ね、話し合いを重ね進んで行くものです。私のようなはずれものには、縁のないまっとうな暮らしです。
 その酔流亭日乗さんが、やや長い、改憲問題などについての文章をときどきのせるようになったな、と思っていたら、6月26日には、「自衛権をめぐって」という文章で、国家の自衛権自然権か、という問題提起をしています。これは、「雪の朝、ぼくは突然歌いたくなった」さんが、今年の憲法記念日にのせた「「戦争違法化」と日本国憲法」に触発されて書かれたものだそうです。
 その内容は菅井にはとても刺激的でした。
 たとえば、今共産党のページでは、集団的安全保障まで国家の自然権であると言い出した安倍首相の見解に対して、自衛権は国家の権利だが、自国防衛を超える集団的安全保障は、国家の当然の権利ではないと反論しています。国連憲章に書かれているその下りが暫定的な措置という扱いであることにも触れています。つまり、自衛権は認めて軍隊は認めない、自衛権は認めて集団的安全保障(軍事同盟)は認めない、というスタンスを取っています。
 自衛権自然権、と認めるのは、酔流亭さんがとりあげている森達也さんもそうみたいで、護憲派にもけっこう浸透している立場です。
 ですが、酔流亭日乗さん、そして、「雪の朝、ぼくは突然歌いたくなった」さんは、
安倍首相や舛添要一氏の、自衛権は国家の自然権であるという主張に対し、国家には自然権なんてものはない、といいます。そもそも権利の主体は人間で、自然権をもつのは個々人である。国家は、自然権をもった個々人が共同でつくり出し、ある権能を付与するものなのだから、国家の権利は自然権などではない、すべて、主権者が付託しただけのものが国家の権能なのである。主権者である国民が自衛権を国家に付与するしないは、国民の意志によるのだということです。
 日本人が国家に自衛権を付与しないならば、それは国家にはないのだ。そして、今の日本国国家に、自衛権を国民は付与していない。仮に、改憲派が勝って、自衛権なるものが書き込まれるとしても、それは国家の自然権だからではない。ということになります。
 酔流亭さんに導かれて「雪の朝、ぼくは突然歌いたくなった」さんの文章も読んでみました。現在国際的に許されている戦争は、自衛戦争だけであること、だから、日本国が放棄している戦争とは、自衛戦争のことである。侵略戦争はとうの昔に、どの国の憲法のもとでも違法になっている。今更放棄するまでもない、とか、初めて戦争違法化を推進したのは、1920年代のアメリカ市民たち(哲学者、教育学者のデューイもその一人)であったこと、不戦条約も、彼らの運動の結果生まれたが、むしろ米英の国家の策動で、自衛戦争を認めるなど、一切の戦争を違法としようとしたこの運動とは正反対の内容になったこと、とか、国連が十分な安全保障を提供しえないため、しかたなく認められた集団的安全保障であるが、それが行使された結果は、全て侵略戦争であったこと、など、目の醒める指摘も多かったです。
 菅井の雑な要約はたぶんちがっていることも多いと思いますが、重要な論点があると感じたので敢えて書きました。ぜひ、ご本人の文章を読んでいただき、よく考えていただきたいと思います。 

 なお、普通の大人の方のページですので、イナゴ症状は治してからに願います。