62年目のヒロシマ

昨日、広島の原子爆弾投下についてのNHKBSの二つの番組を見た。
菅井はテレビはほとんど見ない。

一つは、被爆体験者に書いてもらった数千枚の絵である。絵など何の証拠にもならないという無関心が横行している時、これらの絵は圧倒的だった。写真などもちろんただの1枚もないのだから。人々の脳裏にやきついた原爆が描かれる。爆心地付近では女学生たちが建物たてこわし作業をしていた。石つくりの防火用水の中に体を入れて焼けこげ死んでいた。その絵が何枚もある。死体を何十人と重ねて焼く絵もたくさん。それも広島中至ることろのものがある。焼く時、頭がもげてぼろぽろ落ちる、それを素コップですくって火にもどす。番組には、家族がどのようにして死んだのかをたずねるひとや、出会って助けられなかった小学生の子の身元を確かめるヒトがいた。絵も、それが大量に集まると、事実を語る立派な資料になる。


もう一つは、広島の爆心地、今の祈念公園にあった、にぎやかな町、猿楽町と細工町のこと。爆心地にはただの一人の生存者もいないが、たまたま、離れていて助かったわずかな町民は町を再建することはなく、全国に散ってしまった。それが60年を過ぎて、もう一度あの町をとりもどしたいと、協力して町の復元作業を始めた。コンピューターCGの技術により、バーチャルによみがえった町はあまりにもリアルだった。原爆ドームのもとの姿、そこから走る道と両側に広がる2つの町。一軒一軒がその建物の内部まで正確に再現され、どんな音が流れていたかまで、あるのだ。
原爆が爆発した爆心地が 島病院という病院の600メートル上空だったことをはじめて知った。
そのB29エノラゲイは広島をゆっくり飛び、多くのヒトに見られていたということもはじめて知った。
そして、被爆後の広島の姿がやきついて、その前もそんなにぎやかな町だったという自覚がなかったのが、普通の町の普通の生活の上に、突如、逃げ出し不可能の原爆が落ちたということが改めてわかった。

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ヒロシマを聞く
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