「政権担当能力」という言葉

「世に倦む日々」さんが、暮れに書いていた「政権担当能力」という言葉についての批評が興味深かった。民主党が消費税増税方針を決意したことについての意見の中でだ。民主党は、諸民の利害に反することをあえて方針とすることを、政権担当能力があることを示すことになると思っている節がある。

《事あるごとに民主党が誇示したがる「政権担当能力」とは何なのか。それは国民のための政権担当能力ではなくて、財界にアピールする新自由主義政権担当能力ではないのか。自民党以上に新自由主義政策の遂行に自信がありますよという資本に向けてのセックスアピールではないか。消費税増税は資本が求めている政策であって国民が求めている政策ではない。本来、国民のための税制改革とは、法人税の税率を引き上げ、免税されている銀行に課税して、構造改革以前の法人税収規模に戻すことである。消費税ではなく法人税増税によって財政再建を実現することこそが、国民にとってのあるべき税制であり財政再建に他ならない。》(民主党の消費税増税方針 − 政権担当能力露出症は誰のため 12/26)

政権担当能力」は、現在国家機構を通して社会を支配している連中が、その政党が今の代理人に代わってちゃんと支配しつづけられるかどうかをはかるためにある。「政権担当能力」とは、諸民に向けていわれている言葉ではなく、政党が資本家に向けてアッピールしている言葉なのだというのは、正しいなと思う。
 だが、諸民の為の「政権担当能力」もある、という「世に倦む」氏の言い方にはちょっと疑問だ。 
 諸民の側から、ある期待の持てる政治勢力をはかる基準、能力は何といったらいいのだろうか?
政権担当能力」ではなく、「政権保持能力」ではあるまいか。諸民の利害・関心とつながり、諸民の利害を社会的に実現しようとする勢力は、政治権力をしっかりと持ち、諸民とのきずなを強くし、資本家からの誘いにのって政治権力を手放してしまわない力、それが必要である。小沢一郎は、大連立構想に取り込まれそうになって、諸民の眼から見て明らかに、民主党の「政権保持能力」に大いに疑問を抱かせてしまった。そして、財界からは、その「政権担当能力」を評価されたのである。
 「政権保持能力」より、もっとよい言葉が有るかもしれない。だが、「民主党政権担当能力があるかどうか?」という問いは、資本家の側からの問いであって、諸民にとっては、そんな問いに巻き込まれてはならない、ということなんじゃないか。