ライト マイ ファィヤー

ドアーズについて村上春樹が書いていた文章が深く記憶に残っている。
最近の村上春樹はポジティブなロードランナー、いや、トライアスロンアスリートであり、さまざまな試みを前向きに試みている。だが、初期の村上春樹は、多くの論者から後ろ向きで、過去にとらわれているとみなされていた。全共闘世代のノスタルジーのように観られていた。失われてしまったもの、みつけられなくなったもの。象が象使いとともに縮小し、ついにみえなくなってしまった作品もあった。いつか象は平原にもどるだろうか。・・・ねずみ、直子、いるかホテル、中国人・・・
菅井は、初期の頃の村上春樹が、都会的なセンス、ノスタルジーなどで語られていたとき、それに強い違和感をもち、失われたものを追憶することで、それを復活させたいという強い願いを読み取るべきだと感じていた。その後の村上の活動は、そうしたものを 裏付けたと思っている。そのために彼がとった方法先行のやりかたも、次第に注目されるようになった。英語で書く、ばらばらに書く、規則正しい生活をする。・・・彼がはじめてシステムについて書いたとき、誰もその意義に注目しなかったのに。
彼はドアーズの light my fire  が日本語では ハートに火をつけて と 訳されていることに疑問を呈する。そうではないのだ、もっと直裁なのだ、俺を燃やせ。直截にもっと身体的に体に火をつけろなのだと言うようなことも書いている。それはたぶん村上のドアーズ体験だ。ビートルズやジャズについて書いている村上だが、ロックのもった特殊な失われたものを指しているように思った。前にも一度書いた事があるが、その時ははてなの若い有名ブロガー マルコさんがコメントしてくれていたっけ。
さて、象は平原に戻ったか? 我らに火はついたか?