敗北の思想

「敗北の思想」ということを考える。
あえてそういう言葉を使うのは、自己反省のためだ。
たとえば、それは、情勢を楽観して、自らの立場に都合のよい解釈をして、まだ見込みはあると自分を鼓舞し、進んでいく生き方も、情勢の厳しさを語り、自陣営内の脳天気や、それをつく批判にたいする攻撃を、正しい立場をつぶすセクト主義とし、反対者をきびしく批判しないことを問題としていきどおり、自陣営の欠点をきびしく批判する生き方も含めて、のことだ。
菅井には、それらは評価の問題を別にするなら、支配者たちが仕掛け、我々に観させようとしている敵の見方と形式的にはまったく同一のように思えるのだ。
そういう菅井だって、そうであると、日記を書いていない時の冷めた菅井には思える。
もちろん、そうだからといって何かその時点では書くべき、こう考えるしかないということを書かないわけにはいかないし、こう行動しないわけにはいかないということをしないではおれないわけだが。
だが、それでは、敵の展望する未来を先取りするだけである。
そういう構造自体を問題化するためにあえて「敗北の思想」というように言語化してみる。
今日の作業はここまでである。