光市母子殺人事件裁判

 光市の少年による母子殺害事件に死刑の判決がおりた。 
天木直人氏の政治ブログのファンであるわたしは、そのことに触れた彼の記事を見た。天木さんの記事にはめずらしく、はっきり書いていない文章だった。曖昧だと言うのではない。その記事内でわかるようには書いていなくて、「世に倦む日日」や「きっこのブログ」と同意見だと書いてあるが、引用や要約はないので、その文章だけではわからないということだ。独自の視点からの完結したブログ記事が主である天木さんにしてはめずらしい。論争的で、コメント的である。そして、旗色を鮮明にしていることだけはわかる。
 内容を理解するには「世に倦む日日」と「きっこのブログ」を読むしかないので、そちらを読むことにした。この2つの有名ブログは天木さんのほど愛読しているわけではないが、ブックマークしてあるし、何かにつけて読んでいるブログだ。
 「世に倦む日日」はサーバーがメンテナンスに入ったとかで、残念ながら読むことはできなかったが、「きっこの日記」の最新日記は読むことができた。
 今回の判決を支持し、人を殺したものは、自分も殺されるのが当然だ。深く反省していなければ情状酌量の余地もなく、死刑にすべきであるというものだ。ただ、無期刑と死刑の間の刑罰が存在せず、無期刑は、終身刑になることは事実上無いため、死刑しか選びようがないと言うことも付け加えていて、事実上の無期形のようなもっと重い刑罰があれば死刑でなくてもよかったのではと書いている。犯人が未成年であったことにはまったく触れていない。 
 続いて、「反戦な家づくり」で明月さんの文章を読んだ。判決に憤慨するとともに、その判決をよくやったと支持する風潮を憂いていた。判決理由に二つの問題があることが指摘されている。一つは、「やむを得ない時だけ死刑」という今までの原則が、「死刑が
 普通、特別な理由があるときだけ減刑」と180度くつがえされたこと。もう一つは、「裁判で争ったことが死刑の理由になっている」こと。これは、争うな、というに等しく、人権侵害だということ。ただ、無期刑より重い刑罰のないことが死刑圧力を強めていると「きっこの日記」と同じ問題点を指摘していた。それを裏付ける、事実上死刑廃止をしていた日本で死刑復活のきっかけとなった永山則夫判決についての、裁判官の回想が引用されていた。
 政治ブログである天木さんのブログにこの問題についての記事がのることを意外と感じた私は、「反戦な家づくり」にものっていないかもしれないと思ったのであるが、正面からとりあげてあった。
 ここに至って、この裁判は、一個の殺人事件の裁判であるばかりでなく、政治問題でもあるのだ、ということを思い知らされた。
 菅井は、「きっこの日記」と「反戦な家づくり」を読み比べて、「反戦な家づくり」に共感した。人を殺すものは、殺されるのが当然、とする倫理原則を菅井は支持する。それは、初期のテロリストの生き方でもあったし、命を大切にするということはそういうことである。罪を犯した人にそれを理解させられるかどうかはコウセイにとってのキーポイントである。自然にその原則を身につけるように育つ人ばかりなら、殺人事件はほとんどおこらない。
 だが、その倫理原則は 復讐心を支持する原則ではない。
 「きっこの日記」の記述は、それを復讐心を肯定する口実として使っていると感じる。国家に復讐を代理執行してもらったとしても、死刑を求めることは、人を殺す事である。
 本村さんは、コメントの中でそのことに気がついているようだ。死者の数を3人と自分の意志を含んで言っている。さっきの原則は本村さんにもきっこさんにも適用されるものなのだ。
 個人が自分の復讐を自分でおこなわず、国家にしてもらおうとするのは、二重の意味でまちがいだ。自分自身に対する責任の放棄でもあり、国家のやっていることに対する錯覚でもあるということだ。
 18才を選挙権も与えて大人扱いしようという動きもあり、子供たちを未熟な存在として保護し育てていかねばならないという考えの薄らぎもある。菅井からすれば、成人式は30才に遅らせたほうがむしろ現代の実情にはあっているような気がするくらいなのだが。過去の日本の常識からはずれた若者がおり、外国からたくさんの我々の常識とちがう所て育った人がやってくるのを、厳罰主義で対応しようとするのは無謀なのだ。その無謀をしようとするなら、厳罰国歌、独裁国家へと進んで行くしかないのであり、現にこの政治的意識現象もそういう動きだと思う。