加藤さんの「開かれた犯罪」

 今までにも、社会への復讐としての無差別殺傷事件はあった。加藤さんがとった行為はそれまでの犯人たちとは少しばかり違っていた。
彼はやること、自分の基本的な状況もすべて携帯サイトに公開して行動していたのだ。行為について迷ったとか、実行をためらったとか、止めてほしかったとか言っているとの警察情報があるが、自分が携帯サイトで語りかけた人々の誰かに反応してほしかったのだ。実際には一人もあらわれなかったのだが、彼の今回の犯罪は、今までの類似の犯罪者がやったような沈黙のうちに一人で行ったものではなく、「仲間」(実際にはあらわれなかったが)とともにいわば公然と行われたものだった。なぜするのかも含めて、十分な表明がある。使用した武器の購入についても書いてある。彼が語りかけた不特定な人人のだれかが、やめたほうがいいとか、他のやりかたがあり、そちらのほうがよいとかいったらそうなったかもしれないということだ。加藤さんも一時は工場の入り口にトラックをつけていやがらせをすることを考えて口にしたという話もある。実際には、止める人も違う方針を出す人もいないまま、彼は自分に思いついたただ一つの方法をそのまま実行したのだ。
 加藤さんは過去の類似の犯罪者をも参照している。気持ちがわかるとも書いている。
 彼はいままでの犯罪者たちともつながっているし、ネットを通して語りかけた人々ともつながっている。
 そうした孤立しておらず、「仲間」とともに行われた犯罪だったことが「画期」的である。このような純粋な公開性は、自殺や殺すと書かれただけで見つけられて通報されるシステムができるそうなので、これ以後はもうありえないのかもしれないが。


 なお、舛添大臣が派遣を制限する法律を出すとこのタイミングで発表したので、実力を伴った平和的な抗議行動よりもテロのほうが効果があるのではという見解が一部に出ている。たしかに、19世紀ロシアでテロ戦術が初めて行われたときにもそのような期待があったから行われたのである。道義的に問題があることなどは当事者にもわかっていた。彼らはロシア民衆のためになるとして自分の命をかけて要人暗殺をおこなったのである。テロでは支配体制を倒すことはできないというのは、その実施した結果から最終的につかまれた苦い経験的真理である。
 加藤さんの犯罪からテロ待望や容認を引き出すのはまちがっている。