「居場所」

居場所のない少年、人が居場所を求め、あるいは発見する物語を村上春樹は書く。
居場所のない青年が秋葉原ででっかいことをやらかす。
「居場所」ということは、まじめに考察するに値する問題だと思った。
僕もまた、「居場所」がない、とはっきり意識したのは最近である。僕は自分の側で何かをあがいている、正確にその瞬間しか「存在」していない。ちょっと気を抜くと、あるいは、「自然に」していると「居場所」がなくなってしまう。その時僕は正確にはどこにいるのだろうか。
あがいている時、居場所が存在するといったが、それは不正確であり、存在するのは「僕」なのであり、僕の身体分の不安定な空間がそこには実在しているだけだというのが本当かもしれない。その時僕は「居場所」を欲して運動しているのではあっても、「居場所」はまだ存在していないのだ。
他の人のことはわからないが、僕にも以前は「居場所」があった。それは、僕を生み出した周囲が期待したポジションのようなものであったのだが。僕の場合、その象徴は、使用を許可された僕個人の部屋であった。それが、僕の生活が不規則であり(当時僕は塾の仕事や、芝居をやっていて、帰宅が夜遅くになることがしばしばだった)、父親が物音が気になって眠れないからと言われて、ある日その部屋から、家からということになるが、出ていかされた。今から思えば、その時僕はそれまでの自分の安定した「居場所」を失ったのだと思う。
今僕には再び「居場所」を取り戻せるのかわからない。今、僕にできること、しようとしていることは、動き続けるために足踏みをやめないこと、あがきつづけられる種、原因を探求することだけである。その努力の果てに象が平原にもどることができるのかどうかは僕にもわからない。唯物論とは、僕にとっては、それをやっていく上でのイカリのようなものである。


自分の作り出した世界なのにそこに自分がいない、というのが「居場所」問題の肝なのだが、もちろん、その作り出しは、生育環境、関係のもとで生じてきてしまったのだ。
ということは、自分創出をおこなう実践とは何であり、それを可能にする条件はなにかということが解決への肝であり、また、世界とは関係であり、自分創出を構成する諸実践がそれを相対化する一つの自立したシステムを形作るまでは、既存の自分のいない世界に縛られ続ける以外にはないのだ。マルクスは、理論について、転倒ということを言った。個人の生活過程についても、同じ問題が存在する。