日常から政治をみる

日常生活から、政治、つまりは日本社会の全体につながることはなかなかない。それが市民社会というものなのだが、個々人は自己責任の個人に閉じこもっていて、せまい日常的なまわりとやりとりするのみ、国、社会というの経験されないのだ。ネット右翼の国や天皇が抽象的なのは彼らも諸民であるということなのだ。
サミットというもの、一向に僕らとは関係がない(反グローバリズムりの活動家には申し訳ないが事実である)のは変わらないが、東京にすんでいて、重い荷物を持ち歩くのにコインロッカーが使えないとか、駅にも駅員よりお巡りさんの方が目だつとか、検問が多く、トラブルも絶えないとかあると、政治や国家が日常的に体験されるものになる。
JRが警察に代わって、サミットのため、不審な人、荷物に注意を促し、はるか北海道で行われるのに、東京でご迷惑をかけてすみませんがご協力を、と呼びかけているのは、違和感がある。JRも迷惑をうける側のはずなのに、民営化された企業のはずなのに、なんで、国家の代行をするのか。 
戦争中の国防国家とは、このようなものなのだろう。
日常と政治はこうしたつながりを通して結びつき、諸民に政治の存在を自覚させていく。
エリートや知識人が政治や国家を知るのとは異なったしかただ