歴史家は歴史になる現実にしか興味を示さないか

あるブログで「歴史家は歴史になる現実にしか興味を示さない」という言葉が目にはいった。
それはほんとうかな、と思った。ブログの趣旨についてではなく、単に この命題についてである。 
私は唯物論者である。「個人はだれも、自分にとってかけがえのない対象に中心的な興味をもつ」
あるいは「個人はだれも、自分にとってかけがえのない対象に向かうような形式で自身の実践と認識(世界観を)を構成していく」というのは、正しいと思っている。「歴史家」だけに限らない。
さらに、それに「しか」興味をもたないとは思わない。まず、そのかけがえのない対象とは、もちろん、マルクスにとっての資本であるとか、理論的に抽象化されたものである場合でも、必ずその人の実体験に根をもっている。その人を含む人間関係につながっている。その人が守り、ともに生きている人びととつながっている。それは、必ずしも「歴史になる」ものばかりではない。まずそれを守ろうとしてあがき、自身の行き方と世界観を構成していく。
その時、結果として「歴史にならなかった現実」が彼にとって意味をもつことは少なくない。
「歴史になる」(=現実になる=勝利する)から興味をもつ、というのは文字どおりに解すれば、勝ち馬にのろうとする者というべきで、「歴史家」というよりは、「投機家」と呼ぶのがふさわしいと思う。

「投機家は、値段の上がる銘柄にしか興味を示さない」
これならこれで正しいとは思う。

もちろん、現実の個人は単なる「歴史家」でも「投機家」でもないことは言うまでもない。