太田総理の笑いの底にあるもの

テレビを見ていて、
爆笑問題の太田が、「なぜ人を殺してはいけないのか」ということで、そんなことは説明できないこと、あたりまえのことという養老孟しとぶつかったのだそうだ。自分もわからない、いっしょに考えよう、と言う姿勢でないことに反発したという。自分は漫才でもなんでもいいから、とにかくみんなを笑わせたい、そのことだけにはこだわっているとばんぐみのはじめのほうで語った太田は
今の連中、生きてて楽しいと思ったことなんかないですよ、そのうえ大人が無意味な戦争をやって、人をたくさん死なせている。そういうときに、人の命は大切といっても誰もわかんないよ。笑わせることで生きてて楽しい、おもしろいと感じる人が少しでもふえたら、そんな楽しい生きるってことを大事にしなくちゃ、他人の生きることだって大切にしなくちゃと思うようになると思う。
と言った。なぜひとごろしはいけないかは、りくつではせつめいできない、といったようろうしは、そういうことで、ぎろんをきってしまうのだが、太田はぎろんもきらないが、わからなくても、こうどうしている。
太田しのわらいのどだいにあるものをみたきがした。
それは、ちちおやがこうぎょうしで、ちいさいころからサーカスやおわらいやちいきせいじでにぎやかなときをしっていて、じぶんもそういうせかいにすすみたい、せいじかにもなりたかったという、そのまんま東のしんけんさとも、ちがう。
ひとはだれも、じぶんのほんとうにやりたいことをやろうとし、そのために思考もするし、感性もきたえるものだ。
オバマアメリカ新大統領の演説に、太田のその独白ほどの迫力をかんじなかったのは、わたしのひねくれたもののみかただろうか。
オバマはおもいのほかえんぜつがうけなかったので、ちょっとがっかりしているように、みえたのは、わたしのかんぐりだろうか。
わらいでもえんぜつでもしくじることはある。だが、ひとにはそのおくにあるしんけんさはつたわるものだ。