JAM難波船を読んだ

イスラエル」は存在しない。イスラエル的なものがわたしたちの生きるということのなかで、不可避に存在しているのだ。ワタナベノボルも、満洲からもどって日本にとりつこうとした羊も、日本的といってもよいし、満洲的といったもよいし、イスラエル的といってもよい。わたしたちひとりひとりにその問題がある。イスラエルなる実在は存在しない。あるのはイスラエル的なものであり、私達がさけるにせよ、たたかうにせよ、肝心なものはそれなのだ。
よくわからないが、こんなふうに定式してみたくなった。
こう定式化してみると、ネットでの議論は、「イスラエル」実在派と、非実在派との意味のある論戦ということになる。
菅井はどっちだろう。どうやら非実在派であるような気がしてきた。

 

前にとりあげた難破船氏の議論はおもしろいが、その議論は私にはどうも納得いかないようだ。どうしてなのか自分でもうまくわからない。
だが、村上氏の文学はソンタグのような「資本主義に抗しているがゆえに生きられる文学」ではなく、資本主義の勝ち組であり、「資本主義に守られている文学」であるから、ソンタグのように抵抗する必要がない、としたところには、はっとした。
体制を批判することに村上氏の利害はないのだから、批判しないだろうというのは、安保とアメリカの核に守られているのだから、アメリカに抵抗することができるはずがない、というのと似ている。両者はともに「不可能」なのである。その「不可能」性の中にこそ村上文学の資質があるのだから、難破船氏は文学いっぱんをかたっても、むらかみしとくゆうのぶんがくないようなどは、このことにはかんけいない、というボイコットせよ、といういけんしょうんどうをするひととおなじ側にたっている。

 ロックのじだいをへて、おんがくのせいじにたいするむりょくとぶんがくのせいじにたいする、かいほうにたいするむりょくはじだいのじょうしきになっている。なんぱせんしのしこうはそのじだいのじょうしきのなかでうごいているもののひとつではないだろうか。