村上春樹氏の本を読んでわたしが思っていること

村上春樹氏は、自分の無意識から作品をつむぐタイプの作家である。
だから、彼の非レアリズムの小説のどこかをとってきて、レアリズムのどこかに接ぎ木すればたいていはナンセンスということになる。
彼は評論も書いているが、それは反省的な側面もあり、おおいに参考になるが、構図以上のものと受け取るなら、同様なナンセンスをもたらすだろう。
だが、構図としては一級のものだと菅井は考えている。
だから、それをナンセンスにしない受け止め方というのはある。それは各個人の受け止め方しだいなのだ。
さらに、諸科学のようなレアリズムに着地することもできると菅井は考える。すなわち、象は平原にもどることができるということだ。

それは村上氏が「卵」というはっきりした対象をもった作家だからなんだと思う。いろんなふうに表現されてきたことを、彼はエルサレム賞受賞スピーチで「卵」という言葉で表現した。彼の自分の創作に対する反省に深化があったと感じた。かつて村上氏は固有名詞をいうことができるようになって前進したが、いまや自分の対象を名指しすることまでできるようになったのだ。
科学者なら、自分の対象は、「ブラックホールの形成理論です」とか、「トンボの飛行能力
についてです」とか言えるのは普通だろうが、作家が自分の書く対象についてはっきり言えることなんて、珍しい。

村上氏は、欠如を持った人間たちから出発する。リア充(これには真の、と付けけ加えるべきかもしれない。このことについてはシロクマの屑籠(汎適所属)の http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20090415/p1・「自己評価の格差社会」が参考になった)は彼の叙述対象からはあらかじめ除外されている。
わたしは最初から失われている。
さて、それに対して、村上氏の小説はどのように対処するか。
それは意外に単純である。

1、自分を大切にしてやる。おいしいものを食べ、好きなことをさせる。自分を甘やかす。初期の村上氏の読まれ方のおしゃれで軽やか、都会的というのは、その辺りを見て言われていた。ワインだの、ウイスキーだの、ピザだの、食の充足は、消費文化的文脈でうけとめられていたけれど、リハビリ的なものと受け止められてもよい。内容は神戸という土地の国際性や父親の漢文古典的教養に反発しての西欧指向に依存しているのかもしれないが、生育時に愛情が充分でなく育った場合、まず、自分を自分でかわいがること、これが必要だ。
2、ランニングをする 基礎体力をつけると同時に規則正しい生活をすることにもなっている。
3、動き続ける ダンスダンスダンス スイング・・・

 この根本的方針を菅井は正しいと思うのだ。