finalventの日記「こういう歴史もあるんですけどね」を読んで

ファイナルベントさんの提起は、ネット右翼的な言説が、結果としてアメリカ擁護、亜細亜敵視になっていて、戦前の右翼思想の流れ(亜細亜主義、反西欧)からそれてしまっていたのを、修正するような働きをするもののように感じる。戦前の日本の大陸政策を擁護するネット右翼は、今の主張としては戦前の右翼の亜細亜主義を捨て去っていて、「転向」しており、ただ、軍備(憲法改定)の必要を説くための方便として戦前を正当化しようとしているようにみえる。
だが、日本国(近代日本、明治維新政府)は出発点からアイヌ、沖縄を含めた多民族国家であり、日清戦争後には台湾、日露戦争後には韓国を含めた。その全てにおいて、少数民族の扱いは、多数民族への「同化」と言う方法論だった。公教育では日本語以外を教えず、公用語も日本語とする。しかも、その日本語は、人工的に作り出された「標準語」であり、実際に日本各地で使われていた言葉ではない。長州弁がもとになっているという説もある、明治維新政府製だった。
右翼が戦前の大陸政策の実行を菅井らの見方とは違って、侵略ではなく、正当化されうるものだとするとしても、同じ日本国民である日本民族以外の民族に対する「同化政策」は正しいのかは吟味されるべきなのだが、ようやくそれが問える段階が来たようだ。

ファイナルベントさんの提起の欠点は、国家と民族の違いに無頓着なことだと思った。国家などあってもなくても、日本民族は存在する。それは、イスラエルという国家がなかった時にもユダヤ人は存在するというのと同じことだ。それとさまざまな浸潤があることとは別のことだ。
民族というのは実在である。たかが公教育ごときで、ある民族を日本民族にしたり、朝鮮民族にしたりできると言うものではない。


ネットで検索したところ、台湾植民地期の言語政策についての以下の論文がみつかった。

日清戦争による割譲として、台湾が日本領土になる以前、日本語を話す台湾人はいなかった。
それが、「一国一言語政策が行われた地域としては、台湾領有と前後して、国内植民地と呼ばれた北海道、そして沖縄、海外の植民地であっ た朝鮮と台湾(そして1937年以降は「満洲国」)で「国語」(日本語のこと)教育が行われた。 」
つまり、「まだ植民地の支配方法、 政策が全く決まっていないうちからも、「国語」を用いて被支配民族を精神的に日本と同化させ、日本民族の一員となしていく、という方針だけは決定してい た」ということだ。

《台湾は歴史的に見て対岸中国本土の福建省地域の移民が多く、これらの移民 が話す閩南(びんなん、ミンナン)語、次いで客家(ハッカ)語が数の上で優位な言語であったが、台湾の中部に広がる高山地帯から東部には、台湾を北端として東はイースター島、南はニュ ージーランド、西はマダガスカルに至るまで広く分布するオーストロネシア語族に属する言語を話す少数民族がいた。
このように複数の言語が混在して使われていた状況のもと、日本は初の植民地を前にして、国家としての言語をいかに扱うべきか判断を迫られることになっ た。日本は古くよりアイヌ語を使うアイヌ人、朝鮮語を使う朝鮮人、中国語(官話)を使う中国人などの異語民族と交流していたが、日本語を話すとされてい た「内地」でも標準化された「国語」なるものは存在しなかった1。むしろ、台湾を初めとした海外で、日本語の非母語話者に対して日本語を教育する、とい った実用上の目的から、そして日本語教育の手段としても、「国語」教育を求める声が日増しに強くなっていったのである。
ここでいう「国語」とは、ただ時間の経過とともに自然発生的に出現したものではなく、言語政策によって明治30年代以降意図的に創出されていったもの であるi。日本においては「国語政策」という単語が言語政策という意味で使われることがしばしばあったが、それは欧州におけるような言語問題は日本にお いては政治的な問題として主題化しない、つまり、国家語iiの強制によって民族的抵抗に遭ったり、複数の言語を公用語として制定する必要があったり、といったような事態が日本においては起こりえないだろう、というある意味楽観的な予想を当時の言語学者および国語学者がしてきたからであり、この見方はそのまま植民地での言語政策にも当てはまる。
(「 台湾植民地期の言語政策 安藤正次と二語併用の台湾 」 2004年度東京大学教養学部課程論文 基礎科学科科学史科学哲学分科4年 小町守) 》