連休にしたことで記録しておきたいこと

連休にしたことで記憶にとどめておきたいこと

特務咆哮艦ユミハリ の四巻揃いが 中古セールで二割引 、千円以下になっていたので買った。
そして、読んだ。数回繰り返し読んだ。富沢氏の作品は、初めのスケールの大きさに比すると、ラストが駆け足でごちゃごちゃとなって終わるものが多いが、ユミハリもラスト一巻の終りではそういう感じは否めない。だが、おもしろく、読み直してはじめてわかることもある。時間戦争というか多次元世界ものとしては、希有な作品。こうしたものの元祖がホイルのSF「10月1日ては遅すぎる」であるという指摘があって、そういえばそうかなと思った。異なる世界はそちらでは併存してしまうのだが。
相原はいったいどうなったのだろうか? 東条は?


2つ、気がついたことがあり、それだけを書き留めようと思って、ワープロに向かったのに、それはいったい何だったか?

村上春樹についてのサイト。世界から人を集めてシンポをうったものの記録だが、その基調報告をアメリカの作家がやっていて、

模倣ニューロンという神経生理学上の発見をとりあげていて、それが村上の描く世界と似ているとの指摘があった。自分が何かをとろうと手を伸ばすとき励起されるニューロンとまったく同じニューロンが他者がそれと同じことをするのを見ている時にも励起される。自他の境界を越えているのである。実際と、手を伸ばすイメージ 、イメージが実物の代わりになる。そんな話が書かれていた。これって、まちがいなくラカンの鏡像とか、寸断された身体とかとストレートにつながる話だ。脳は一個の統一体ではなく、さまざまなシステムの饗動、交代、葛藤であり、外界ともつながっている、ということも言われていた。ま、ネットの祭りや、大衆社会の洗脳されやすさなどもそういうことだが。

もう一つ、その模倣ニューロンについて調べていて、目にとまったこと。人間が何かする場合、まず、その準備の指示信号がはじまって、それから数秒たってからやろうという意識が生じるのだという。これは大変重要な事実だと思う。
普通、われわれは、何かをしようと思って、それがもとになって行動が生じると考える。
だが、そうすると、ここに言われている、考えるまえから行為が始まっていることの説明がつかない。
だから、次のように考える以外にはないと思う。

行動とは、中枢神経や末端神経やの連合運動によって生じるのだが、その過程は「意識」によって生じているのではない。中枢からとはかぎらない重層的な神経信号の伝達の運動と身体の動きの統一体が行動であり、その過程は無意識的なもので、「意識」は、それらをあとから、反省して生じるものだということだ。意識は何周遅れかで、行動に影響を与えるかもしれないが、意識自身が自覚している行動に対してではない。
さて、模倣ニューロンは、実践的(無)意識にかかわるのだろうか、それとも、反省的意識の方になるのだろうか。後者だと考えると、どちらも、模倣だということで統一的に理解されるような気がする。
このしくみからは、デジャビュー現象とか、シンクロニシティ感覚なんかも、また、何が起こるか予想できる現象なども、説明可能になるのではないか。

これらは、菅井が立つ唯物論に有利な事実ではないかと思う。意志の観念論の立場は、どうやって自らを守るのだろうか。



http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kasetsu/subject/sub31.htm
意志と行為の時間関係

 人間は、随意筋を動かす過程で、主意的に行動していると感じることが多い。まず、意識の俎上で行動プランを決定し、しかる後に行動に移すという立場である。しかし、現代的な神経科学は、こうした見方を否定する実験結果を提出していることに注意すべきであろう。

 被験者の報告に基づく古典的な実験では、「好きなときに指を動かすように」と指示された被験者が「指を動かそう」という意志(intention)を自覚する(aware)のは、実際に指が動く200〜250ミリ秒前だという結果が得られていた。しかし、この実験だけでは、自覚された衝動に基づいて行動が開始されたかどうか、はっきりしない。そこで、1990年代後半から、神経興奮や脳血流量の変動をリアルタイムで測定する機器を利用した実験が行われるようになる。こうした実験で明らかになってきたのは、随意運動に先立って自覚される意志は、行動を引き起こす原因ではなく、無意識的に遂行された行動内容のプランニングに由来する派生的なものであるという事実である。

 随意運動を引き起こすきっかけになるのが、前頭前野に発生する準備電位である。こうした準備電位は、実際の行動の1〜2秒前から立ち上がり、行動後にもしばらく持続する。行動しようとする衝動を自覚するのは行動の250ミリ秒ほど前なので、準備電位が上昇し始めてから1秒ほどは、無意識的に行動を準備していることになる。脳血流量を測定する実験によれば、衝動の自覚にかかわっているのは、頭頂間溝(intraparietal sulcus)および前補足運動野(pre-supplementary motor area )という領域であるらしい。実際、頭頂葉に傷害を受けた患者の中には、随意運動に先立つ意志の自覚がないまま行動を開始するケースもある。すなわち、随意運動の実行を決定するのはあくまで無意識的なプロセスであり、自覚される意志は、決定された内容の提示であると見なされる。

 上の議論から示されるように、意志と行為が単純な原因と結果の関係にないとするならば、われわれが意志と呼ぶものが情報処理の過程でどのような役割を果たしているのか再考を余儀なくされる。この点に関する私の見解は、意識の「制御論的アプローチ 」についての論考を参照されたい。

【参考文献】D.M.Eagleman, 'The Where and When of Intention,' (Science, 303(2004)1144-)