意識の二重性をわかることの大切さと大変さ

世の中には、論理とか、ただしさということが、実はわかっていない人がけっこういる。
そういう人は、自分の意見がまちがっていた、ということがわからない。
論破されても、論破されたとは思わず、へりくつだと思ったりする。
実は、私の両親もそういうところがある。

間違いを認めるのではなく、自分が事実として意見を正した時でも、ただ、考えが変わるだけなのである。
正直であれば正直であるほど、そういう人は、自分の間違いを認めることはない。
そして、自分と違う、あるいは自分の意見を批判する人があれば、そちらの方が常に間違いなのである。
はっきり言えば、自分が基準で、自分と違う見解は、自分と違うから間違いなのである。

論理とは、自分の考えを自分で吟味するための一つの重要な手段である。僕などは、それを学校で、数学などで学んだ。
のちには、哲学や、文献購読で学んだ。

だが、論理というものは、学ばないと、なかなかつかいこなせない。自分の考えは時にまちがうことがある、ということは
経験から学べそうだが、なかなかそうではない。

もっとも、自分の考えを吟味する手段は、論理だけではない。実験、観察などのデータもまたそうである。だから、事実や論理
を含め、科学によって、思考は吟味されるといってもよい。

この、科学知、つまりは、個人の利害や興味関心によらない、客観的認識がそういった主観知とは別に存在するということは、ソクラテスプラトンがくりかえし問いかけたし、きちんと主張したのは、スピノザという哲学者だった。

論理の学習を通じてであれ、事実による検証であれ、アカデミズムでの訓練によってであれ、個人の意識の中に、主観的な認識と、客観的な認識の領域がはっきりと区別されて併存するようになって、はじめて、何が真理であるかについて、論議の前提ができる。

だが、客観知(科学知)の地平が自分にひらけていない人々においては、議論というのは、なかなかむずかしい。

この前提は、哲学的には、実在論と呼ばれてきた。菅井は唯物論、と呼んでいる。


バカよばわりの横行のもとには、こういう問題が横たわっている。バカよばわりでは、解決はしない、というのが菅井の最近しみじみ思うところである。