1Q84から人はそれぞれいろんなことを思うだろう。
私にとっては、なぜ青豆は、さきがけのリーダーを殺さねばならなかったか
ということと、
天吾とふかえりのタッグとは何なのか
という事がはっきりわからず、気になる
とにかく、1984頃にその二つのことにあたるなにごとかが生じているべきであり、そうだったら1995も2001も2009ももっとましな風になったはずだというのが、
この物語から読むべきことと感じている。
一つ目の点は、さきがけのリーダーが生き延びて展開して行った先に、オウムと麻原彰晃があると物語はいっていることである。
リーダーになにかしら優れたところが描かれていたように、麻原にだって何かあったろう.だが、さきがけのリーダーにおいてはまだ、まともなところがあったし自己認識もあった。筋肉のこわばりの痛みにあたるものはどんどん大きくなって、ついには、あの惨事をおこすまでの暴力に至る。
それはしかも、社会の反体制的な潮流側でのことである。羊をめぐる冒険は、体制側のことだったように思う。その違いは無意味ではない。
かつてよきものであったものが、ゆがみ、困難をかかえ危機に瀕した時、ほろびようとする力もおきるが、それを刷新しようとする力も、またとんでもなくすごい能力で危機を防いで延命させてしまう力もあらわれる。どうやらさきがけのリーダーはその最後のものであったようだ。だが、防げば防ぐほど、乗り越えようとすればするほど、内部に無理と苦しみを蓄積する。それを克服できるさらに強い超能力が要請され、ありかたは奇妙にゆがんでいく。そして破断点に達するのである。