村上春樹『1Q84』(新潮社、2009年)――ひとつの読み方

こぶた新聞というプログの
http://s-home.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/1q842009-d378.html



というエントリーがおもしろかった。


この1Q84じたいを てんごの かいた ものがたりだと かいしゃくする もので、
そういう みかたを している ひとは けっこう あったが、
この ひとの おもしろいところは、かかれたものがたりの はいごに ある かくされた げんじつの できごとを
すいさつ する てんである。ぼうとうで うんてんしゅが いうように、「げんじつは ひとつ しか ない」 つまり、1984ねんのみで ある。
1984ねん、こうそくどうろでの けんじゅうじさつをとしたと ほうじられた じょせいが じぶんの しょうがっこうの どうきゅうせい だった あおまめ だと しった てんごは、それや、 じつのちちのきょうそに れいぷされた ふかえり、そのしょっくで ことばが おかしくなった、のことをなっとくするものがたりをつくりあげた
それが 1Q84 だとする。1984において、きょうそりーだーはいきつづけているけれど

この ものがたりは ちょくし できない ひげきてきな げんじつを、われわれがうけいれる ことが かのうなかたちに へんかんして、わすれないように ほぞんする ための ものだと いうのである。

そんなことは おもっても みなかったが なるほど、という かんじも する。


ものがたりの はたらきの ある めんは たしかに そうだと おもった。

1984 アオマメ ジサツ」 で けんさくすると、けっこう おもしろい かんそうが よめた。