ややきまじめに

 すこしふるいものだが、しゃかいしゅぎのほんしつてきなもんだいてんとしていくつかをまとめてあげているものをみつけた。
 http://members.jcom.home.ne.jp/i-kawag/index.html/oosakatetugaku.htm
 それぞれのてんについて、じぶんのかんがえのてんけんのため、わかっているとおもっていることをかいておく。ひはんのてんきょはかこにあたっているものもあるが、こんかいはあたっていない。いずれもほんしつてきなこたえのつもり。
 なお、すがいは、てつがくてきにはゆいぶつろんしゃ・じつざいろんしゃであり、まるくすのゆいぶつろんてきれきしかん、しほんしゅぎのけいざいめかにずむのかいめい、しゃかいかくめいについてのいくつかのしてき、れーにんのゆいぶつろんのがいねんか、ていこくしゅぎだんかいのけいざいてきかいめい、こっかろんにおけるきよなどはただしいとみている。


1.マルクスの言う「プロレタリアート」は哲学上の理念的存在にすぎず、現実の「労働者」との乖離に、現存「社会主義」の破綻とマルクス思想崩壊の根拠を指摘する猪木正道による批判。

こたえ
プロレタリアート階級は歴史学と経済学における理論概念であり、それが階級闘争政治学の概念と区別されずにすんだのは、ろうどううんどうというものがせんとうてきだったからです。それがたいせいないかして、いまではそれではすまなくなったことを意味しています。政治学上の諸主体を実証分析した上での階級的けんちからの分析が必要です。


2. 1世紀も前に、マルクスの「予言」がすでに現実と合わなくなっていることを指摘し、「プロレタリアート独裁」路線を明確に否定、中間階層の獲得とプロレタリアートの市民化こそが社会民主党の戦略であると「修正主義」を提起したエドゥアルト・ベルンシュタインによる批判。

こたえ
 植民地搾取を前提とした先進資本主義国では特定の情況下でプロレタリア階級の特権化が生じ、まるくすのよげんどおりにならなくなったことはたしか。だがその中でも、一社会構成体内部での絶対的窮乏化は進む.日本でもアメリカでもそう。かくさしゃかいということ。
 プロレタリア独裁問題は、現実がブルジョア独裁であり、変革期に国家の存在を不可避とするなら、その国かのほんしつはプロレタリア独裁以外ではありえないということ。その具体的形がどうなるかについてはいくつかの仮説が存在し、議論にもなっている。
 私見では、今の日本でいえば、財務省支配のつながりが日本におけるブルジョア独裁こっかの具体的なかなめであり、それを解体できるかどうかが「強力革命」の核心になる。


3. 自由には「消極的自由」と「積極的自由」の2種類があり、後者の「自由」を強制することは全体主義に陥るとして、プラトンに始まりマルクスに到る一元論とユートピア主義の危険性を指摘したアイザイア・バーリンによる批判。

こたえ
 これはルソーの民主主義論の核心、一般意志論への批判だとおもう。 ふらんす
かくめいも、へーげるもまるくすも、したがって、しゃかいしゅぎしそうもすべて、それをけいしょうしている。ぷらとんはみんしゅしゅぎしゃではないが、せいじしゃかいのこんぽんてきりねんをかんがえたというてんではばーりんてきじゆうろんからすればいっしょにこうげきされることになるのはとうぜんであろう。だが、みんしゅしゅぎをえごいずむのせいとうかとかんがえず、るいてき、きょうどうてきなものとかんがえるのであれば、そのりろんてきがいねんとしてのいっぱんいしろん、きょうどうしゃかいへのぜんめんじょうとろんはひていすることはできない。また、ぜんたいしゅぎはばーりんてきじゆうろんにもとづいてもせいとうかされるのである。にほんやあめりかにいまおそいかかっているぜんたいしゅぎはそれである。



4. 歴史法則主義こそ全体主義以外の何ものでもないとするカール・ポパーの批判。

こたえ
「しゃかいしゅぎ」のひつぜんせいということにたいするひはん。本当は、しゃかいしゅぎはかがくではなくて、りそうにすぎない、ゆーとぴあであるということかとおもわれる。まるくすがしほんしゅぎのほんしつをぶんせきしており、しほんしゅぎはほんしつてきにむじゅんをかかえていて、そのままではたちゆかなくなるということがかがくてきげんめいである。それはじじつとしてじっしょうされつつある。そのこくふくけいたい、しようけいたいがいかなるものであるかということについては、いっぱんてきなみとおしはあるが、ぐたいてきにはまだかいめいされていない。げんじてんでは、そういういみでしゃかいしゅぎのひつぜんせいはただしいといえる。