日々平安録 村上春樹「若い読者のための短編小説案内」論

ネットには今も、1Q84についての感想、書評がつぎつぎあがっていて、おもしろい。
ひとつだけまちがいないことは、とても読みやすい本だ、ということだ。
特別にひっかかりをもってしまった人を除いては、読めなかったという人はいない。
長編小説に一度トライしてみようという人にはおすすめの作品である。
それから、読まない人、読んでいない人が、わざわざ読まない、まだ読めていない、というブログを書いていたりするのも 不思議な感じがする。



日々平安録 http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20090726/1248617430
というブログのきのうに、1Q84論を書いたあとで、書き残しでいることがまだあると感じたので著作「若い読者のための短編小説案内」と初期の短編をを読んで書いたという村上春樹論があった。
手がかりは、1Q84が長編なので、彼の短編論から、ということだ。
そこで分析されているのは、おおむね、納得できることだった。
菅井がいちばん印象的で大切にしている「中国行きのスローボート」についてくわしく分析されていて、なぜ菅井がそうなのかもわかった気がした。
ジャズの「中国行きのスローボート」という曲の存在を知らないみたいだし、日中国交回復以前に存在した中国社会主義への期待を知らない方のようで、まわりくどい書き方をしているところがあるとは思ったが。
初期のデタッチメントをランニングのトレーニングをするなど、克服したとはいえ、まだ充分ではない、というか、変わっていない。天吾は受け身だ。という批判もあたっているだろう。
これは村上春樹を理解する上で、とてもよい論文である。

「もしも村上氏の長編作品のもつ力が主として物語の力に依拠するものであるとするならば、短編作品のもつ力は何によるのだろう?」という問いに日々平安録氏がどういう回答をみつけたのかはまだわからないけれど。それはたぶん、より印象的だと感じた最近の「短編小説らしい」短編ではなく、最初期の、いささか「奇妙な味」の短編(「中国行きのスローボート」)をとりあげてしまったからなのだろう。


でも、実は、最初の立ち位置によって決まってしまうこともある。


日々平安録氏は、「そもそもここは私の居るべき場所じゃない」とする位置にはもともと立っていないのではないかと思う。あるいは、村上氏のような人より二歩も三歩も先へ進んでいる人であるだろうか。
丸谷才一への村上春樹のとらえかたと自分の捉え方とを対比している以下のところでそう感じた。「変身」と「逃避」。言葉の問題にすぎないようでもあるが、あることをどういう言葉で呼ぶかに、世界が賭けられることもある。菅井は、村上春樹氏を「変身」の作家と考える。もちろん、「文学おたく」とも呼ばない。


 《丸谷氏の文学の根底にあるモチーフは変身であるというのが村上氏の説だが、わたくしは「逃げる」ということだと思っている。公的なものから逃げて私的なものに閉じこもっていたい、あらゆる政治的なものとはかかわりをもたず、ただ好きな文学に淫していたいということだと思っている。氏は文学おたくなのである。そして村上氏も丸谷氏にまさるとも劣らない文学おたくでもあるのではないかと思う。》  (日々平安録 7/26)