1Q84 についての評論「一匹の蝶の羽化するまで」は画期的

ネットに
Re: 1Q84
という、1Q84 についての評論「一匹の蝶の羽化するまで」
だけがのっているブログが8月7日付けで出来ていた。
http://otherme.cocolog-nifty.com/blog/


長文で、よく読み込まれていて興味深かった。空気さなぎを物語のことだとする解釈は合理主義的解釈に過ぎて、
同意しがたかったけれど、でも、比喩的には、村上氏の真実においては、たぶんその通りなのだと
思うし、ほかの解釈もどうかな、と思いつつ、読み込みが深く説得力がある。ボクの読み飛ばしていた多くの文がそんなに暗合していたのかと驚かされた。 
でも、物語というキーワードをつかったからこそ、結末の解釈に、決定的な、ある言葉を発見したのだろうなとも思う。
そう、大変長文で、1Q84を読んでいない人には意味のないこの評論は、たった一語の言葉を最初に発見したという点で画期的なのである。


先を越されたか! と人の感想、評論について思ったのは初めてのことだ。


ボクの白日夢の中では、村上春樹という研究者が、発見した新しい科学的対象に多くの研究者たちがわくわくして、先を争って、それをもっと解明しようと、ボクもその一人だが、とりくんでいる。その中で、この Re:1Q 84は 確かにその研究を少しだけ先に進めた論文だと、そんな感じだ。
その一語は、論者の見たように、1Q 84の物語を書き変えてしまうものかもしれないが、天吾の願望であるのかもしれないし、村上春樹の無意識がやってしまった書きまちがいにすぎないかもしれない。だが、そのどれであっても、それほど違わないような気もする。


《青豆の物語はわずか三文だ。
 青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする。天吾くん、と彼女は思う。はっきりとそう口にも出す。(2p499)》
《青豆は「天吾くん」とはっきりと口に出している。いったい誰が銃を口にくわえながら、はっきり「天吾くん」なんて言えるというんだ。そこにヘックラー&コッホはないのだ。それはもう青豆の口からはずされている。
 空気さなぎが物語を書き換える。》(「一匹の蝶の羽化するまで」9.終章)


この評論を読んでから、Book2の当該ページをもう一度読んでみた。青豆のラストシーンと天吾のラストシーンが前よりくっきりと目の前に浮かんだけれど、「はっきりと」という言葉を無視して読むことはもうできなくなっていた。つまり、大ラスの「天吾くん」と はっきりと口にも出す青豆は確かに、拳銃を口の中につっこんではいない。そのようにつなげて読むことはもうできない。


この評論の前にも、大ラスでの天吾の決意からさかのぼって、青豆は生きているはずだとの推察や、青豆には生き続けてほしいという願望から拳銃には実弾ははいっていないのでは、とかかいているひとたちはいた。だが、それはそうもかんがえられるといういじょうではなかった。逆に、青豆の人を殺める行為は許される行為ではなく、青豆の死はそれをあがなう行為として、ふさわしいものだという点から青豆の死を当然とする人びともいた。だが、その因果応報の仏教論理は、1Q84の中にはまったく出てこない読者自身のものなのだけれど。


このブログは、その評論をのせるためにだけあるようで、論者の紹介もない、2チャンネル的な匿名ネタページの形式で書かれている。だが、たとえそうだったとしても、たった一語の読みのアイデアだけで、これだけの4万字もある、中に入り込んだ文章が書けると言うなら、たいしたものだ。