私はあなたの「不安」です つづき 

前に
自己理解として、「わたしはあなたの不安です」ということを書いた。
菅井と父親の関係、そして、菅井の本質について。
これはそのつづきである。
父親とその父親、私の祖父との
私の生まれるまえのことがらについてである。
個々の事実は前から聞かされていたことだが、
つい最近、それがどういうことか分かった気がしたので書いてみる。


それらは、父から聞かされたことだから、それ以外の人にちゃんとたしかめたことはないのだが、
多分そういうことなのだと思うのだ。


祖父は、子だくさんであり、菅井の父はその末っこであった。
兄弟といっても、一番上とは、20近くも年がちがい、親子ほどの差かある。
いわゆる大家族のように、兄弟姉妹が7人も8人もせまい家にごちゃごちゃいて育ったというのではない。
父が生まれたときには、もう上の兄弟は独立しており、父が生まれてまもなく母親もなくなったので、
うんと小さいときは知らないが、事実上、家には、父親と後妻の義理の母親と父の三人暮らしだったらしい。
愛情にあふれていたとはいえない。父は義理の母親について、人はよいが、酒癖が悪かったという。
祖父は酒を飲まなかったので、気をつかっていろいろ大変だったという。
ある時期、結核にかかって、家にいた人が同居していたらしいが、ずっと屋根裏部屋に隔離されていたという。
父の家族には結核患者は結構いる。そのころ、結核は死の病である。だから何人か兄弟はなくなっている。
それにそばで看病しているものに移る。


なぜか、父の兄弟は、徴兵にとられたものがいなかった。体が弱かったのか、タイミングなのか。
祖父はそのことを気にしていて、「一人も我が家からおくにのために兵隊にいかないのは申し訳ない」といっていたらしい。だから、末っ子の父は家族のために自分くらいは、兵隊にいかなければならないというように感じていた。
だが、一方、父は、勉強をよくして、兄弟の中で唯一、東京の大学に合格する。理科系であるし、これは兵役免除ということだ。父の勉強動機の中に、戦争にいかないですむように、というのがあったかどうかはわからないが、無意識ではあってもきっとかなり強くあったのではないか。大学にいかなかったら、まちがいなく父は戦争に行く運命だった。
だが、戦況はきびしくなり、大学生の兵役免除の特典はなくなる。いわゆる学徒出陣である。だが、理科系はそれでもあとまわしとなったし、父もまた、大学入学後に結核菌に犯されていることが判明、肋膜炎で大学を休学、国に帰って安静療法、入院の身となった。一応の回復をみて、その年に徴兵検査を受けたが、病気を理由に帰された。其のとき、父は、「おくにのためにぜひ、とってもらいたい」と相当がんばったらしい。結局帰されたものの、病気なのにおくにのために戦争にいきたいという、立派な男がいた、と立派な実例として紹介されたらしい。馬鹿な話だが、祖父の、家から兵隊にいかないのは申し訳ないという思いを息子はすっかり内面化していたのだとおもう。
一年たって、また出頭するようにいわれたが、今度は父の方が、また病気だから帰されるだろうとすっかりたかをくくっていた。ところが、すぐに徴兵、中国大陸へ行くということになって、もう家にもどされることなくそのまま、とられてしまう。なんの用意もなかった父はすっかり大慌て、兵舎にはいるまでにあわてて手紙を書いて、通りかかった小学生に投函を依頼、そうしてなんとか消息を知らせた。まだいいなづけだった母は、それを受け取ってまたびっくりしたというのは、我が家では繰り返し、聞かされた話である。父は中国の内陸まで行軍させられ、トーチカ勤務をしたりしたが、発症、軍の病院に入院した。戦争がまもなく終わったので帰ってこれたが、戦病死していたかもしれない。
菅井は、父からは、同じようなパターンでありながら免除されたり、国内勤務になった人に比べて俺は損をした、とぐちのようなことも聞かされた。免除などは無関係、満州や東南アジアに連れて行かれたたくさんの人と比べて得をしたとは思わないようだし、「おくにのために戦争にだれかがいかねばならない」という考えをまちがっていたとは考えてないようだ。
祖父は、戦後、肺病で死んだ。菅井はそのあとに生まれている。


父親は祖父のいうことをよくきく、いい子だったようだ。おじいさんにいわれたから大学に行ったという。だが、思い出らしい思い出は語られない。祖父がだいぶ年をとってからの子だし。兄弟間もなかよしというよりは、金やあととりにまつわるもめごともあったらしい。


わたしは、父は祖父にとっては よゐこだったかもしれないが、深い愛情と信頼があったようには思えない。「おくにのため」ないしは、「近所の評判のために」「子供のうちひとりくらいは兵隊に行かせないと申し訳ない」と考え、「子供のうちひとりくらいは、大学にいくのもよいかもしれない」などと言う父を心底から愛することは難しい。表面はよい子であっても。


父が勉強が出来、兄弟の中でただ一人大学にいけたのには、そうしなければ。まちがいなく戦争にいかなければならないという立場が大きく無意識的な動機としてあったのではないかと菅井は思うのだ。厭戦と言うこと。それは本音としてはっきりいうことはできない。実母が生きていれば、あるいは母親には言えたかもしれないがもういなかった。


父は、祖父から充分に愛情をもらえなかった。なにかにつけておじいさんがいったからと答える一方で、祖父が急死したときのことを語る父のあっさりした感じからも、そういう気がする。


父は、最終的には、祖父の「おくにのために兵隊にいかねばならぬ」の価値観を内面化し、自分に引き受け、子供である菅井にもその考えを押し付けたと思う。小さいころの菅井は、おとうさん子であり、素朴愛国少年であった。そういうものとむすびついたかつては自分にあった不安を今度は子供に押し付けた。それによって自身は安心を求めた。


菅井はその役割存在からその後、脱落してしまうわけだが、出自自体は今の私にも刻印されている。


父親もまた、祖父の不安として生まれ、それを生きた、という話である。