アニメ版 ぼくらの

5/19
原作マンガ ぼくらの
に次いで、アニメ版も見終わった。

三年前のアニメ放映時のことを
今になって知った僕は、
なるほど、アニメが原作と比較されて
論議、監督ブログでの批判などをもたらしたのは当然だと思った。

設定、登場人物やジアースの絵柄や、雰囲気において、アニメ版はよく原作マンガを再現しており、よくできている。その点での違和感はまったくない。

が、アニメはきわめて魅力的な歌「アンイントスール」をオープニング曲に据えた一点で、原作をこえでてしまう。その歌詞は、作家がコミックを読み込んでつくったものだから、原作と違っているわけではない。原作者もこの曲を気に入っているようだ。だが、この曲は、15人の少年少女が削除されなければならない、という運命自体を強調せざるを得なくした。だから、アニメは中盤から後半にかけて、このゲームを強いるものたちに反抗する物語になっていく。契約を解除する道をさぐることになる。
原作のマンガでは、このルールに対する反抗はあまりみられない。ジアースを生み出している科学は、あまりにも超絶的であって、人間にはとうてい解明不能であるのと対応している。それに対して、アニメでは、研究所である程度まで、解明されうるように設定が変わっている。
 そして、原作にはみられない、ギャグ的で、おせっかいなおとなも登場する。子供達は一人で悩まなくてもよくなり、おとなの精神的バックアップを受けて、「子供らしく」あまえられるようになる。老人Zのはちゃめちゃな連帯のファンでもある菅井はなんだか懐かしい展開だなと思った。
 かれらの契約は結局解除されないのだが、カナちゃんを生き延びさせること、ジアースを破壊することにより、ひきつぎ戦をしないこと、という結果はもたらす。

 さて、これは監督が、この作品のテーマをパイロットは死ななければならないというルールを守りつつも、それに叛逆することにみているからだと思う。
 原作では、それは観られない。引き継ぎ戦はおこなわれ、並行宇宙どおしの生き残りをかけたバトルはつづいていく。
 だが、原作はにもかかわらず、感動的である。それは、この話がばらばらの子供たちが、「ぼくら」になっていく物語だからであると、菅井は思う。アニメの監督はおそらく、そうは思わなかったのだ。アニメ製作時、原作はまだ、半分しか進んでいなかったのだから、しかたない。というか、アニメが、強いられたルールに反抗する物語になったがゆえに、原作はそれとはちがう物語になれたのかもしれない。
 原作では、登場するこどもたちはみな、不幸な育ち方をした、欠如を心に抱えた子供達である。自分の存在の大切さを確信できないのである。そして、他人をなかなか信用しない。ジアースの仲間たちに対しても。彼らは、契約時にはまったくばらばらで、それぞれ違う事を考えている。孤立した個人なのである。
 それに対して、アニメでは、はじめから、彼らは仲間になっている。臨海学校から帰ってからもまとまって行動したり、他人の事を心配したりする。家庭もそんなには悪くない。むしろ、アニメでは登場する何人かの上流階級、支配階級の子女を庶民の子供に改変している。
 監督にとっては、人と人がつながって、ぼくらになる、ということ自体がとてつもなく遠い、困難な課題であるかもしれないということが想像できないのかもしれない。それはもっとあたりまえでしぜんのことだと思うのかもしれない。だが、ゲンダイにおいてはそれは、そうではないのだ。
この過酷なルールの奴隷となり、一緒にいきることを強いられる中で、ぼくらは初めてぼくらといいうるものに変化していく。
なからいまこが、おそろいのユニフォームを作ろうと思いついた時、その過程は始まった。そして、町と後の、仲間の家族のもとを訪れる旅において、はっきりと言葉になった。そして、それは、彼らの空虚、孤立とニヒリズムへの解答となっているのである。最後のコエムシの立ち直りもそれゆえである。「ジアース発進!」といって彼は闘う。 
 アニメのラストで監督はジアースを壊してしまうが、それは早まったのではないか。ジアースは 無力な少年少女に初めて力を与えてくれる、ぼくらのロボットなのである。のったものをアンインストールしてしまう残酷なロボットだが。
 引き継ぎでは、その過酷なルールははじめから次の地球の子供達に示されたが、それはささやかであっても、進歩である。ワクのように、自分の運命を知らされずに死ぬことはなくなった。
そして、たしかに、闘ったパイロットが死なねばならないというのは、代々のコエムシに引き継がれた情報なのだろうし、16人の死で実証されて真実のように思われるが、もしこれらのルールが人為というよりは、自然現象なのであるのだとしたら、本当のしくみ次第では、死ななくなる道がないとは限らないとおもうのである。

菅井は、アニメ版も,すきである。小説版もぜひ読んでみたい。

そして、もし劇場版がありうるのなら、それが どのようなものになるか、と思うのである。(ただ、主題歌と二つのエンディングは他に代えようがないように思う。というか、アニメ版をひとたび観てしまったあとでは、あのオープニング以外の「ぼくらの」は、ちょっと考えられなくなってしまった)



 


原作の鬼頭さんも
なるたるのおわるときにはくそみそにいわれていたが
ぼくらの
はその人たちをもひきもどすような
みりょくてきなコミックになった
ことをおもいだす