世に倦むひとの反動性

世に倦む日日
は悲しいブログである。
感覚には、なかなかな才がある。
だから、有力なサヨクブログにみえる。
だが、じつは、じぶんちゅうしんのひとなのである。
かくめいてきリーダーをきどって、
いろいろとていげんをする。
ネットにけっきをうったえることもあるが、
さまざまな うんどうの リーダーのような ひとびとにたいしてが おおい。
じつげんするなら、すばらしいこともある。
だが、じつげんはしない。
かれのことばはそのひとびとにはきかれない。

ここまでは、あまきなおとしとにていなくもない。

だが、そのあとがちがう。
じぶんのていげんをうけいれるものがないと、
よにうむひびのひとは、
じぶんのいけんをきくものがいないから、いけないのだとなるのだ。
そして、くらいみらいをしめす。
もうこうなっては、しょみんにきたいはできない。
がいぶにたよるしかない・・・などとなる。


けっかてきに。はんどうとおなじせんでんになる。


あまきしなら、
はとやまが、おざわが、かんが、そのたの ひとが
ブログでの じぶんのていげんをうけいれなくても、
かれらがしたがわないからいけないとは いわない。
かれらは そういう ひとなのである。
でも、あらかじめ そうきめつけはしない のである。

そして、あらためて じぶんの へいわしゅぎのりそうのただしさをしゅちょうする。。


わたしは、いまでは あまきしには、せいじてきリーダーとして
やってほしいとは おもわない。
だが、かれのブログの ぶれない いけんをよむにつけ
ますます いまの にほんには たいせつな じんぶつだとおもう。


よにうむひびし には そういうことは かんじない。
そして、こんかいの おきなわちじせんの ように
わるいけっかの あとの きじを よむときは、いやなきに なる。

ああ、やっばり このひとは、はんどうてきなんだな、とおもいしるから。

よにうむひび は あさひしんぶんに にている。



でも、まけた伊波洋一もとしちょうは、そんな すぐれた じんぶつなのだろうか。 よにうむひびを よんでいていなみし というひとに きょうみを もった。