自分がない、という感覚

あなたは、自分がない、という感覚がわかるだろうか。


もし、わかるなら、あなたには自分がない。
もし、わからなかったら、あなたには自分があるのである。


自分がない人のほとんどは、自分があるというのがどういうことかもわからなければ、自分がある人がこの世に存在しているということも知らない。彼または彼女にとって、自分のある人は、自分よりしっかりした人とか、自己主張の強い人というふうに映る。
自分がある人のほとんどは、自分とはちがって、自分がない人がいるのだということが想像できない。彼らにとって、自分のない人は、根気のない人、一貫性のない人、なにがしたいのかわからない人、つまりは努力の足りない人ということになるのである。


支配的な物語においては、自分のある人が普通の人であり、当たりまえの人であり、市民であり、自分のない人は自分たちのような人間になるためにもっと努力すべき、能力と努力の足りないだめ人間なのである。自分のない人のほうも、そう思って努力しようとするが、実を結ぶことはなく、自分のだめさかげんに悩み、あきらめていく。


だが、この二つの人間は、程度の差などではない。断絶した二種類の人間なのである。


村上春樹は、ドーナツのような人間、中心が空虚な存在と、自分のない人間のことを呼んだ。ドーナツについてや村上の奇妙な小話を、気のきいたおもしろいお話としか思わなかった人はたぶん自分のある人だ。自分のことを言ってると感じてしまう人は自分のない人だ。はっきりとそう思わないで、なんだか不気味な話だと感じた人も、たぶん自分のない人に属する。


社会学的には、貧乏人に属する諸民が、心理学的には自分のない人間というあり方に、結構重なっている。同じだとは言わない。それぞれは、それぞれの因果をもって生じているものだ。だが、重なってしまう偶然性のわけも多分いうことができる。


ドーナツ人間と、中身のつまった人間の間にどういう対話がなりたつのか、あるいはドーナツ人間はどうしたら中身のつまった人間に進化することができるのか。それはまた別の話になる。
いまのところ、この二種類の人間の間には、越え難い壁があるばかりである。