香山リカ先生、小出助教を神とする意識を批判する

「彼らはいま、フィクションの世界ではなく現実の世界に起こった原発問題にこころを奪われています。とはいえ、彼らが行動するのはあくまでもネットの世界に限定されてしまいます。熱狂する彼らがネット上で喧々囂々の議論をしても、現実に起こっている原発問題は何も解決しません。むしろ現実世界とネット上の世界に大きな乖離が生じてしまっているように思えてならないのです。」


話題になっている香山リカ先生の文章から引用した。
「彼ら」が誰であるかはともかく、ここに書かれたことは事実であろう。高円寺、渋谷、新宿(全国)と続いた素人の乱らしかけの脱原発デモがせいぜい、「彼らの限定されたネットの世界」の世界の果てである。既存政治運動とネットの「反体制」のアマルガムとして、それは現実の動きであると同時に、想像的なフィクションの世界の延長でもある。リアルな現実政治であると同時に、よいものばかりである空想の実現、万能感の出現としてのバーチャルという、矛盾を背負った実践は、いやな現実に目をそむけてきた彼らの世界の果てとなっている。
脱原発のデモの空間には、実際には福島や宮城やの被災地のきびしい現実も持ち込まれているのだが、彼らのやってぃることが、脱原発の意思表示の行動と、なにがしかのカンパ程度のリアルでしかないというのは、本当だろう。

こうした直接行動は、被災地のがれきの撤去や生活の回復とは今交わっていない。だが、ネットでのコミュニケーションと違うことは、リアルな実践だということだ。それは、現実世界の中に結果を刻む。まずは、成功したとか、たくさん人がきた、楽しかったという程度であっても。

デモは各個人にとって、世界の果てである。人々は、任意に自分の空想的現実からそれに参加する。だが、その結果は、大した効果がなかったということを含めても現実世界のことである。そして、その結果は各自の空想的現実に反映される。

さて、「彼ら」が香山先生の言うように、ひきこもりのニートであるかどうかは別にして、彼らの空想的現実と被災者たちの現実とに乖離があることは事実であろう。

また、そのデモのようなもの、ボランティアツアーでもよい、に世界の果ての機能があるといったって、仕掛け人の期待とはうらはらに拡散消滅してしまうかもしれない。

原発事故が無事終息し、大した健康被害も発生せず、大企業と国家のもうけ仕事としての震災復興が軌道にのるならば、そうなるだろう。


だが、その幸せな、そして、香山先生の「患者」さんたちには不本意終結は、期待できないような気がする。政府はまだまだへまをやるだろう。東電は事故を終息することができないだろう。東電はやっていくことができなくなるかもしれない。汚染は止められないだろう。健康被害は現実のものとして姿をみせるだろう。

すでに、震災だけでなく、原発事故による死者は何人か出ているが、今のところ僕らはまだ、原発事故での「死者第一号」を経験していない。死者は永遠に出ない。今度の事故はたいしたことはなかった。そういう結末になればよいだろうが、そういう空想の中に引き篭っている人がいることと、現実は違う。

もし、よき終結とならなければ、拡散消滅はできないことになる。
今のところデモという姿をとっている何物か、は実在する。歩く人はなくならないし、世界の果ては終わらない。
インターネットの内部の世界は完結などできない。


香山さんは、震災ボランティアの減少を憂い、下心のある人々を集めるボランティアビジネスを提唱している。ボランティアでやらざるを得ないという時点で、もうビジネスにはそぐわないと思うのだ。仮にそれが、ブラック企業による搾取や原発作業員の派遣のようなものの大規模化として、電通とかがもうけるビジネスとかはありえるかもしれない。お金をとって、ボランティアしてAKB48のライブが見られるツアーとかだろうか。それなら、今、「脱原発の歌」で話題になっている老舗アイドルグループ制服向上委員会は以前からやっていたスタイルだろう。巨大広告会社による搾取はないわけだが。


香山さんは、制服向上委員会や、社会奉仕系のアイドルグループに、アイデアを提供することをやってもらったらよいかもしれない。AKBは無理かもしれない。それは、東電・政府がなんでこんななんだろうということと同じです。