アイドル現象の唯物論的分析視角その2

「アイドルをさがせ」という映画と歌があって日本には、今使われていようなアイドルという言葉が定着したそうだ。本来アイドルはベーコンという学者がつかつたもので意味は、偶像というようなことだった。
本物の神様の代わりの
仏像だの、仏画だの、マリアの絵だの、キリストの十字架だの、聖杯だの、聖衣だの、学会会長だの、真言だの、である。それは本物ではないが、本物のようにまちがわれる。

さて、今日本にいるアイドルやアイドルグループにも、その本来の意味は生きている。

あるファンがあるアイドルにはまるのは、たまたまかもしれない。だが、そこには選択がありやがてそれは必然なものに変わる。ファン当人が大切とおもっている人生の要素が、アイドルに投影されるのである。

今のような現場系アイドルの時代になるずっと前、小泉今日子は、自立的な生き方のシンボルであった。彼女の唄と生きかたを通して、人に支配されるのではなく、自立した自分として生きるのが正しい、自分ではなかなかできなくともということを確認していたようにおもう。

そういうありかたは、今の現場系アイドルにもいえる。たとえば、ももいろくろーばーなら、「全力」、他のアイドルなら「大好き」とか、「うれしい」とか、「かっこいい」とか「楽しい」とか、・・・
各人が価値があると感じているものをそれが体現されているアイドルへの応援、支持によって表現する。自身はその価値をちゃんと大切にできていなくとも、少なくともそれが大切であるという気持ちは、現場に通いアイドルを応援することで再生産されつづける


見方によっては、アイドルは、戦前の日本にあった赤線、青線のような機能を社会的に果たしているということもいえる。
悪い先輩のてほどきで、赤線にはまり[遊び」を覚えた若者男は性欲を含む女性との交流体験をそこで経験した。


今はAVビデオの普及によって、もっとも肉体的な欲望のレベルは自慰でもある程度満たされるに至った。でも、やはり非性欲的ではあれ、直接の女性たちとの交流は生きる上では必要である。たとえば握手会というしくみは、それがなければ異性との身体的接触など日常生活で全くないような男性に貴重な経験である。直接の会話や、押しのアイドルとの写真撮影などもそうである。

現在の風俗もある意味で同様な社会的機能ではあるが、アイドルは、もっと洗練された、システム化された、そして、肉体的性欲からは完全に独立した異性経験の場、でもある。


神聖な近代的家族の場から遠い今までにない生活様式をつくりつつある人々にとっては、現場系アイドルいうのは、なくてはならない生活の一要素の役割をにないつつあるのかもしれない。