唯物論的歴史観・

経済的構造があらゆる社会構造の土台をなしている。
現在の経済的構造は資本制社会と本質定義されている。


資本制社会とは資本増殖の運動法則が経済を展開させる社会であり、
その担い手は資本家と呼ばれ、彼らが資本制社会の主人である。
資本制社会は、生産力を無限に発展させ、
資本家に対立する賃労働者という奴隷を次々とつくりだし、増やしていく。


生産力の発展は、一定の水準になると、
資本制社会の構造では支えれなくなり、
次の経済的構造へと移行せざるを得ない。


次の経済的構造は、社会主義社会とか、共産制社会とか
呼ばれている。そこでは、資本増殖の運動法則ではなく、
社会の富の増加とすべて諸民の幸福のための計画が
経済を展開させる。社会自体も、諸民各人の自由の発展を保証するようなしくみとなる。


資本制社会から共産制社会への移行には一定の時間と段階が必要である。


とりわけ、資本家が残存する段階では、諸民の権力による資本家たちへの規制(搾取)
が不可欠である。これは、古典的社会主義において、
プロレタリアートの独裁とよばれてきた内容である。


さて、以上が唯物論歴史観というものの内容だが、
パソコンとインターネットの発展が、技術を変え、生活のしかたをも変えつつある現状を見れば、
経済が社会を変えるというのは、その通りだろう。


だが、社会のしくみ(資本制社会)まで、変えてしまうという点には、本当にそうだろうかと思う人もまだ多い。だが、現状でも、資本制社会の原理をどこまでも貫こうとすると問題が起こるというようなことはすでにいくつもでている。


さらに、生産力がある一定の水準に達すると、という、「ある一定の水準」とは何かということになると、意見がいろいろと分かれてしまう。


決着はついていない。