「ぼくらの」 が放映

アニメ ぼくらの が再放映されたとのことだ。
ぼくには見ることはできなかったが、今この時期での放映には感慨がある。
「ぼくらの」 については、前にこの日記で触れたことがある。


アニメ「ぼくらの」 は メジャーのところの作品ではなかったが、
それでも鮮烈な印象を持つ問題作だった。


原作マンガがあり、
それとの比較で、原作ファンからものすごく叩かれてしまったため、
アニメ自体をそれとして評価されなくなり、不幸な生まれとなった。


だが、アニメはすばらしいテーマ曲とイントロシーン、エンディング
原作にあった絵柄をよく再現し
ロボットの巨大感と重量感を出すさまざまな工夫からして、
原作の世界に三次元的リアリティを持ち込むことに成功した。


現実のこの世界にジアースなどのロボットが本当にいる感覚を僕は何度も味わった。


そして、ジアースは来たのである。
というか、地球の大振動と、それによる破壊。そして、原発の爆発。
放射能に汚染された日本はもうもとにもどることはできない。


その中で大人のとった行動は、原作ぼくらのの清い、抑制のとれた責任感というよりは、
アニメぼくらののがちゃがちゃでどうしようもない姿に近かった。
最後に出てくる財界の黒幕みたいなものがほんとにめちゃめちゃやっているのでは
ないかというくらい、現実政府はメルトダウンしている。


つまり、ほんとにリアリティがあったのは、どうやら 原作ではなく、アニメの方だった
ということなのだ。ジアース戦を大災害にそのまま置き換えることはできないが、
その危機の中で、大人たちは危機感をもってできる限りのことを果たしているか。
マンガ関を思わせる、福島原発作業志願のグループなど現れているが。


マンガは、自己犠牲の美化も含めて、微妙であるが、よい世界を描いている。子供たちは
犠牲となったが、理不尽なルールの戦いをやりぬき、社会はほんの少しでもましな方向に
再建されようとしている。だから、アニメやラノベのような結末に対する座りの悪さはない。
だけれど、それは、今のところ理想、ないしは夢だった。


第二次世界大戦前だって、大東亜共栄圏という理想ないしは夢があり、軍人さんに対する
信頼はあったわけだが、現実はそうはならなかった。夢にはそういうところがある。


現実は、アニメぼくらの のように、ぎくしゃくして、なんなの、であり、おいおいである。


そんな中で、子供たちのあるものには、ジアースのような、力、発言力、影響力が与えられるが、
それを行使することは、抹殺の危険を伴うという状況があるように見えるのはなんだろうか。


山本太郎氏という、大きな子供のことだけを言っているわけではない。
子供は自分の読みたいものを自分で判断できると言って、大人たちの規制に異を唱えた子役タレントの女の子、
原発はよくないもの、やめるべきとブログで宣言したアイドルの女の子、
脱原発アイドルソングを歌って、そんなことをしてるとひどい目にあうぞ、アイドルはノンポリでなくちゃ、なんて言われているアイドルグループ。


アンインストールが、原作ぼくらの のように、絶対の運命であるのかどうか、わからない。というか、原作でだって、実は、コエムシがそういうから、そうだと今は思うしかないのだが。だが、ある発言の場や能力を持つ人がそれを実際に行使しようとする時に、今の日本では、仕事をほされる 抹殺される危険を覚悟せざるを得ない 少なくともそう思ってるたくさんの人がいる。


「ぼくらの」は その残酷な設定によって、そもそも子供むけアニメにはならないのだと、原作ファンは主張しました。
だけど、今の日本は、ある意味、ぼくらの の状況にすでになっている。たくさんの 並行地球、並行日本が その生存をかけて戦っているというのが、ぼくらの の世界だが、それって、まんまではありませんか。


震災後、まどかマギカ の女の子が戦って死ぬ シーンがショッキングと話題になりました。ぼくらの が 受け入れられる時節が来ているのかもしれません。


「ぼくらの」 に興味をもった人がいたら、まず、アニメぼくらのを初めから見ることを勧めます。そして、何か疑問に思うことがあったら、それに満足できなかったら、原作マンガを読んでみるといいでしょう。この二つは、根本がちがう、別の作品ですが、パラレルワールドのように似ています。
どちらが好きか、どちらをとるかは、その人の問題です。あるいは、作者やアニメ監督より、もっとよい ぼくらの 世界 があると感じたら、それをとればよいのです。


ライトノベルの小説版はマニアックな大人以外の人にはおすすめしません。ま、パラレルワールドではあるのですが。