医者に行くこと

これは一つの問題提起です。おもいつきを語っています。だから、まだ、証明されてはいません。


日本の医療は歪んでいないか。

一人一人の諸民の体についての訴えによりそって、健康な生活をとりもどすための力となる、けがなどに断固とした処置をする、そういうたよりになる医療、医者になっているのだろうか。

そうではなく、医者を訪ねた諸民の、体についての訴えを、重病につながるものの兆候とみなして、
検査をする。検査の結果、重病(ガンとか、インフルエンザであるとか、伝染病であるとか)につながるものでない
ということになると、何も心配するものはありません、といって終わるのではないか。

医者が重大とみなしている、いくつかの病気を発見するシステム、それが今の日本の医療システムの本質ではないだろうか。
それが見つかると、それぞれに対応するマニュアルがある。入院、手術、物理療法、それらによって分類され、しだいに終末医療へと送られて行く。それらの病気が発見されないときは、病気ではありません、心配はありません。

でも、自覚症状はあるのです。疲れやすい、頭痛がする、咳がきれない、前はこんなことなかったのですが・・・

年をとれば、いろいろ出てくるものです。無理をしないように、うがいをしましょう、・・・でも心配はいりません。


以上のような描写は極端かもしれない。だが、医者は患者がくると、まず検査をしようとする。検査は特定の病気を前提としなければ組み立てられない。それを発見するためのものだ。最初から、特定の病気をさがすというシステムになっている。
つまり、個人の症状、体質、自体にむきあうシステムにはなっていないのだ。

だが、人の健康とか体調というものは、特定の病気に還元できるとは限らない。その人の生命の形である。


医者に対する不信は、日本の今の医療のそういう側面によっているところが多いのではあるまいか。
医者は死から人を救う仕事ではなく、人をすみやかに分別して、その過程で死を納得させるシステムのオペレーターとなっている。そこに問題があるのではないか。