アイドルファンは孤独だ。
アイドルの現場は連帯の場だ。
同じ動作みんなでして、ぐるぐるまわったり、肩を組み合って踊っても。
リーダーシップを発揮する人は、みなをさそう。古い人は躊躇している新しい人を
さあさあ、と押し出す。
サイリウムもある。
何種もやり方があるから、目立つ動きをやろうと思えばやれる。
大勢で協力しなければつくれない動きは、肩車だけではない。
お祭りだ。
日常が孤独であればあるほど、そこでは連帯が求められるし、感じられる。
時には度をこして、アイドルをみるより、じぶんたちの応援に
いっしょうけんめいになってしまう。
アイドルと一緒になって盛り上がれればうれしい。
だが、それは日常でのつながりではないのだ。日常でおさえられているエネルギーが
この場をつかって、すごく放出されているのだ。
若い人の苦しさや困難は、行き場を求めてここにでてくる。
他には出ていけない。毎日の仕事や日常性の日々では出せない。
自分たちの困難は、自己責任であって、具体的な誰かのどこかのせいにしてはならない
というここ十年以上、ネトウヨらの跳梁跋扈によって広められた「常識」の中では、
おされられたエネルギーは、そのような閉ざされたスペースにおいてしか発散できない。
ガス抜きというやつだ。
外からの風が吹き込んでいるアイドルソング制服向上委員会の
「ダッ!ダッ!脱原発の歌」で引いてしまう人たちの気持ちには
そういうところがあるのだと思う。