広島・長崎と、原発事故

菅首相が、きょうの広島原爆忌記念式典で、原発から脱することについてもしゃべった。だが、その語り方に菅井は疑問をもった。とってつけたようなつながりでしかない。それでよいはずがないと。


日本は唯一の核兵器被爆国として、世界に声を上げてきた。
核兵器の廃絶を、二度と核兵器の被害、放射能の被害をおこさないようにと。


だが、福島の原発事故で、日本は加害者、責任者となってしまった。
他の国にむけて、核兵器をなくそうと訴えていた日本が、
自分からこの原爆被害なみ、いやそれ以上の放射能汚染を引き起こしてしまった。
海と、大気を通じて、全世界に放射能をばらまいているのだ。


いままで、広島は無垢な被害者として平和を求める者の聖地であった。
アジアの人々に日本軍のアジア侵略を度外視しているといわれて、それはそうであっても、
なお、この恐るべき非人道兵器をつかわれた日本人は、百パーセントの被害者であった。


だが、三月十一日以来、それは変わってしまった。


放射能の被害と悲惨を訴えていた当の日本が、原発を50以上もつくり、原爆生産に必要なプルトニウムをためこみ、海外派兵など、平和憲法をもち、平和を訴えていた日本が、戦争もできる国になろうとしていたことは、いわない。核の悲劇を訴え、それをなくそうといっていたその当の国が、核の被害を作り出し、世界中にばらまいた。われわれは、被害者であったのに、その被害者としてなすべきことを貫けず、広島の誓いを、けがしてしまったのだ。


日本が核兵器をもとうとしているのに、核廃絶などいっても何の説得力もない。国内のネトウヨの核を持ての世迷い言をそのままにしておいて、政府の憲法破壊をそのままにしておいて、そんな理想はかかげられるはずもない。


核被害(日本ではそう呼ばないので、核兵器と、核発電はいつもべつのもののように思わされていた)を自らまねいた国、国民として、戦争で死んで行った人々、広島・長崎の核爆撃でなくなった人々に、彼らの死を無にしかねないことに立ち至ったこと、お詫びしなければならないと考えます。


そのみっともなさ、情けなさに、広島・長崎に唾をふっかけてしまったようなことに、どうむきあったらよいのか。


それが今、日本人にとって、この2011年原爆忌において、つきつけられている、解かなければならない問題だと感じています。