パソコンの夢

ぼくらがはじめてパソコンに触れたとき、それは1980年代のことになるが、それまでにあったコンピューターというものとはまったく違っていた。オフィスや会社に一台ある大きな機械で、専門のオペレーターさんのつきっきりの大型コンピューターは、われわれとは無縁のものだった。プログラマーとして就職した人は、そういった大型コンピュータのプログラムメンテナンスやプログラム修正に追われて、過労死した人もたくさんいた。


だが、小型の手作り感のいっぱいあるパソコンなるものは、なんだか、未来のあるものに感じられた。
ゲームもできたし、計算もできたが、プログラムが組めた。当時、パソコンのメインの機能はプログラムであるように見えた。そこが、ワープロ専用機械との違いだった。そして、自動運転。はじめて見たパソコンは、おしいれにおかれていて、主のいるといないとにかかわらず、計算や、ゲームをかってにすすめていた。主はときどき、結果をのぞきにやってくるが、パソコンは一人で働いていた。
そう、個人によるプログラミングとそれによる自動制御、自動運転、それこそがパソコンだった。


だが、それは変わってしまったように見える。最後にそれらしいパソコンを見たのは、20世紀も末、なにかの美術展だったとおもうが、MSXにつながった機械が、力強く動いていた。


今では、パソコンは、事務用品である。文字を書いたり、本をつくったり、絵を書いたり、それを印刷したり・・・
でなければ、インターネットを通じてのコミュニケーションツール。
でも、人は、作業の間中、パソコンのところにいなければならない。それどころか、プリントが正常に行われているか、など、つきっきりで、監視していなければならなかったりする。あるいは作業がちゃんと終了するか絶えず気をくばらなければならない。

主人はどちらだろうか、パソコンだろうか、自分だろうか、と思う。

あの、わくわくするパソコンは、今では、当時の大型計算機のようなものになってしまった・・・と思う。
iPhoneとか
iPadなんてのは、
そういうものを思わせる何者かのようにも思えるが、

でも、なにか違う。決定的に違っている。


まだ、世界をおさわがせしているハッカーの人なんかの方が近い樹がするがなあ。